余剰消費

現在ワタクシは、徒歩5分圏内に10件余のコンビニがひしめく激戦地に住んでおり、コンビニハシゴには最適環境であるが、一通りヲチして殆ど買うことがないヤな客である(一番利用するのはコピー取り)。必要なものは値段の安い他の店を利用するし、買ってでも確かめる必要があるソソル商品に出会わないダケの話である。しかしそれでも情報源として利用してることには変わりはない。
水と火の始末は外部化して、商品を買うというカタチに置換えて目的を果したとして、後処理が残っている。ゴミの分別と片付けである。でー、これが出来ないひとが多いらしい。。
ちまたに溢れた幾千もの商品の取捨選択は、個人を情報処理不能に陥れる。なんでもありそうで(じつはそんなにないんだけど)逐一そんなに細かく吟味してられない。そうしたときに、セレクトしといてくれるコンパクトなカタログ店があると便利である。そこからチョイスすれば、とりあえずハズレない。つい色々買ってしまっても、たいした出費にはならない。
大量生産大量消費の社会は、高度情報化社会となる。あふれる商品の判断と行動がいかに迅速に出来るか、それが生産行為の恩恵である情報の価値を読み取るか否かにかかってくる。そんな側面は、怒涛のように押し寄せる情報の山を処理できない決定不能者にはイチ押し限定チョイスを、マニアックなヲチャーにはサイクルの早い新商品を紹介するショーケースとして、そんな社会のウインドウとして店は機能する。
いくつかのサイトでコンビニ話がもりあがってるけど、端的にいってコンビニは、昔のよろず屋の変形であろう。新しく見えて商形態そのものはそんなに新しくないが、背後にくっついてくるモノを介在にした相互情報化ラインによるコトの同調感が、「儀礼としての消費」を違ったカタチで復活させているものと、想う。
さて、「片付け出来ない」=ちらかってる=モノがあふれているというのは、どゆことなんだろう。いうなれば、片付け出来ない品々は、その当人にとってさして必要でないということになるのではないだろーか。なにしろ、贅をつくし金のありあまってる人ばかりが、そゆことをいってる訳ではなく、低所得な人だってそゆことをいうのだから、世の中いー時代になった?とゆーことかな。一過性商品の情報消費して、その品の持つ意味=価値は低下したものの、物質としての質量は保ってるという半ばゴミ状態か。自己許容量を超えて情報搾取し未消化な状態か。それを外部に変換する循環労働がないかぎり、それはたまっていく一方だ。とにかく、ホコリかぶってるとか、どっかいってわかんないとかいうモノは、それだけ所有者の中で価値が低減してることの現れである。
しかし、労働は「家」から「個室」から放棄したのだから、片付かない。それは消費のあとの「余暇」をモノで生め尽くすトホホの姿、余暇というユートピアを楽しめない貧乏性だったりもして。
ちょっと前に流行った『片づけられない女たち』では、そおんな悩み(=ADD、注意欠陥障害)はリタリン抗鬱剤)飲めばいー*1と、機能合理主義的処方とコーチングをすすめてはいるけどねー。モノからコトへというのが80〜90年代、コトからココロへは90〜00年代、最近は、さしずめココロからカラダか?ま、最近の消費トレンドはそゆ方面に向かってる。それも個々のライフスタイルなんだけど、、、ふー。

*1:無論、片付けられない人=ADD になる訳ではない