身体の商品化

先に考察されたように、対人性交(&恋愛)は他者身体に自己を虚想することだが、問題は、恋人なり婚姻者という性交を了解した相手がいつも?性的他者な訳ではないということだ(もちろん自己虚想を常に強いるという力関係もありうるが)。さて、そうすると、常に性的身体で他者虚想を受け入れる存在という価値が商品化される。

娼婦とは、自慰する人が自分の手に虚想する他者と変わらぬ存在でしかなく、それ故、買春とは、自分の手を娼婦の身体にもちかえた自慰でしかないことになる。娼婦、彼女の身体は、性的世界に生きる私の身体の延長であり、それでしかないものなのである。

そして湯朝真一 『知覚と身体の現象学―身体の意味とそのメタモルフォーゼ』をひいて娼婦/売(買)春/=ワイセツという感覚については、「昼にワイセツとみなした娼婦を夜に買う客となった瞬間、娼婦にとってその客がワイセツな存在となる」両刃の剣とキッチリ言及する。客は、娼婦に込められた自己虚想(=性的他者)を得るが、商売側(娼婦)は、別に客に自己虚想(=性的他者)を込める必要はなく、「エクスタシー」を感じなくとも外側ダケで性的存在を演じればそれでいいのである。
しかし、娼婦も恋人も現実の他者であり、セックス・コンシャスという点でのその二つを分かつ線は限りなく曖昧である。そして恋愛関係の齟齬は、大抵そんな「自己虚想=性的他者」方法論の取り違えだったりも、する。