自慰型商品秩序   

「ランガージュ(言語)が秩序を構造化する」という説に立つアタリ(やっと到達したですよ)は、モノの言語=商品と位置づけ、商品とは「情報の発信源であるばかりでなく、コミュニケーションの通路であり、情報でもあり、社会的諸関係を映しだし、それを伝達する」と規定する。そして「儀礼秩序」「帝国秩序」の変遷を経て「商品秩序」に到ったと、秩序=情報システム論を導きだす。

そこでは、市場での交換の中で、モノだけが暴力の集約点となり、両義性と意味とが消失し、そして、人間の言語がモノのそれに翻訳される。言葉に対するモノの勝利である。『商品秩序』は、コミュニケーションを商品に還元する。
食物(14世紀から17世紀)、衣服(18世紀から19世紀)、そして20世紀に入って、交通手段と家事労働が相次いで産業化された。それは言い換えれば、環境、及び、複数の他者との諸関係を体現する財を、そして次に、他者―男性的、次に、女性的というごく大まかなシンボルとしての―を規格化するモノを順次、人工製品化してきたということでもある。さらに換言すれば、根源的三画関係の二つの頂点、第三者と他者とを産業化した後には、産業化に残されたものは、『自己自身』、自己自身の体現化、自己への関係、すなわち、自己の身体に対する暴力を清めること以外にない。

『三つの世界』ジャック・アタリ

アタリは、モノ=道具としての人体=臓器移植が本物のカニバリズムにつながるという考察からの「自律監視社会」と、上で引用した「自慰型商品秩序」の二つの概念をもってして「消費者そのものを生産する社会」を論ずる。また、商品(オブジェ)化し大量消費のシンボルとしての音楽の考察から「ノイズ」=雑音の重要性を見いだし、このような「秩序」からの逸脱の可能性をさぐっている。
そぉんなアタリ、最近ナニしてんのかとおもったら、インターネットに関するSFをカキコしたそーな。う〜む。