コンビニ=日常のエロス

要は、欲望メンヘル子宮環境をささえる母体構造としてのものの見方、なのでしたぁ〜。
客と娼婦というのは一種の性別役割ではあるが、現代ではそれがくずれてきていているからこそ、id:a2004:20040727さんで展開されてる、「飽食の主婦の貧しい食生活」であるのだし、「なりたいカラダのイメージを身にまとう」余暇ライフに必要な性的/身体的他者をコンビニ的情報商品社会が、丁度かっての「娼婦」のように24時間スタンバイしてくれてると、見ることができるんでないでしょーかね。
a2004さんが紹介されている『<食DRIVE>調査がとらえた現実』とその本を引いて、sujakuさんが驚かれているが、なんでそうなるかといえば、sujakuさんの自主嗜好行為としての料理と、主婦という役割遂行義務行為としての料理では、行為者としての意味内容がまるで違うからであろう。なによりも、たいていの家庭=日常にはエロスも欲望もないからである。たから、余暇も欲望をひたすら買って回転してかねば「空虚」は埋まらない。
商品資本主義に対抗?すべくもちあげられた「地域通貨」でも、このジャック・アタリの論は引かれているんだけど、結局は自己関係性/差異の数値化商品流通化というカタチに寄与してることには変わりないように見えるんだけど。