id:kmiura:20040827でのドイツ語と日本語の文章表現考察から始まる、「論理の型」の話し。
思考(論理)の表現成立条件としては、思考回路の志向性と表現形式の習慣性と発言の場いう3つのファクターが大きく関与してるんじゃないかと思う。
id:kmiura:20040830では、「論理依存性」の強弱が問題となっているが、その問題定義自体がまさに論理普遍主義という思考回路=イメージの整理(ファイリング)方法のひとつの型なんだろう。
あるイメージを整理するという目的にさいして、ある思考回路が手段として選ばれるのではあるが、その時にチョイスされる手段としての回路が、学問専門分野なり習慣的文化なりといった、いつもひとつの回路で整理され「結論づけ」がなされ、その回路に付属した表現形式でもって、自明的ターゲット(発言の場)に現されるといったことは、マニアック&プライベートから学問専門分野からコマーシャルから政治といった所まで、共通する点ではないだろうか。
手段は型としてみえやすく、メソットとして型の羅列が整えられる。型を学習することで、目的に到達するという方法論は、学問であれスポーツであれ芸事であれ洋の東西を問わず日夜やられていることである。
id:hizzz:20040819でもカキコしたとおり、手段は目的を正統化するものではないが、手段が習慣化した結果、目的と手段がひっくりかえるということは往々にしてある。いかなる場合もひとつの手段が、唯一の方法論として厳然としてあると、その方法論に乗せる為通しやすいように、目的や事情の持つ条件を恣意的に取捨選択して歪められるということが起こりうる。そうして出された結論は、当然偏向したものとなる。学究者であれば「○×イズム」思考法であり、表現者であれば「○×ムーブメント」様式を取る(のがスノッブで一番イケてる)ということかな。しかし「世の中に対してイケてるイケてない」という思考回路が自己行為の全ての大前提にあるという思考というものが、方法論的動機が自己=〈個〉にないという、80年代はそれでいーとしたそのツケが今、総身に回って「型」ダケしかないからより「型」にしがみつくタコ壺状態なのかと。