理想者の孤独

…ってカキコするとすっごくカッコいいけど、実際は波間に漂う破片=「型」に必死にしがみついてフラグを必死に立てようとしてる漂流者が多いんだろう。
ヲチャーしてると、学究者のお高尚な論文でも運動者の熱狂的な演説でも表現者スノッブなアートでも、なんだか自己の必然性を探す、いわゆる「アタシさがし」居場所確保&維持が、表現される以外の奥の自己動機として現れている場合が多い。
最初の例としてkmiuraさんが上げられている建築家も、多分その類で、自己論文を「意訳」されてしまうとゼロサムで自己を否定されてしまうと考えたのであろう。以前ポリティカル・コレクトネス(PC)ということでカキコしたけど、高尚な「論理」言語を振り回し論理的にふるまっている人でも、こういうタイプは多い。ましてやいってるコトとやってるコトに整合性が無いひとは、山盛りいる。これは、発話=自己表現に対する行動責任の持ち方という文化習慣的ファクターが関係してくる。
一億総懺悔的な場の連帯責任に持ち込んで自己存在を軽くするというのが日本的ポピュラーな身の所仕方であるが、その場合、西洋モダン的〈個〉存在は限りなくないものとなる。…「Not」それこそが80年代ポストモダンだったんだけど。
しかしそれで「Not」概念の後の、放置プレイでいまだに存在しまくってるリアルをどうするのかという問題はほうかむりされたまま現在に到っている。そして、一端「Not」といってしまった思考回路には、それらの解決の方法論が回路として遮断されてしまっている。
実はそれはポモにかぶれた進歩派だけのことではなくって保守派もそれは同じことで、多様性とは裏腹のモラルコード、バックラッシュ的理想主義を再確認&強調すればする程に、それとは遠くある自己とでキツくなっている状態は、アメリカ叩きにいきおいづく左翼&プロ市民バッシングに萌える保守から冬ソナブームとか「正しい恋愛」とかでお互いを縛ろうとする若者に到るまで、なんだか同根の問題*1を含んでいるよーに思えて仕方がない。

*1:いわれる「ぷちナショナリズム」ではない。むしろそういう二項対立化図式学説が定説化して、「国」思想概念以外を切り捨ててしまうことの方がかなり重大な問題を含んでいる。