インターフェイス

そうしたひとはダブルスタンダードにあるといってよく、それが、一本スジを通した「論理」的存在方法からズレるということであろう。ま、つきあわなければいーのことで遮断するのも手ではあるが、そうした社会世間的コードの使い分けというのは、「オトナの作法」だったりする(大苦笑)。
山伏クレムリンさんの「ことばの使い方」「 議論における「文章の読み方」」もそのラインのことをお書きになられている。
やっかいなファクターとして「感情」というものがあって、価値判断に感情=内観がからむと「議論」でもなんでもなくなる。そして上にカキコしたような理想主義者程、クレムリンさんのいわれる「べき論」で構成されており、その為1ミリでもその理論にケチをつけると、たちまち「悪意」とみなされ、前提手続き論を装った「お前に反論する資格があるのか」等の為にする議論などの人格攻撃で排除される、と。ふぅぅ。。。>id:hizzz:20040322#p2
ま、そうした「悪意」を全面に押しだす表現には、枝葉は流してその呼応された表現の議論内容全体に対する整合性の如何に着目して、議論の幹に繋げていく手法が効果的かと考える。