自己であることの不幸

さてさて、表現される以外の奥の自己動機を居場所さがしと上でカキコしたが、実はこゆことを以外に把握してない「論理者」が結構多い。それは「他者」への相対に現れる。ネット上で散発される「善意の介入」まなざし問題などがその最たるものである。その動機が特に性別を伴ったセックス・コンシャスを内包していることだから、問う側/問われる側双方あまり言及されないのであるが、他者の不幸を探す植民地化行動ということにしか自己をアイデンティティファイできないという不幸が、不問に伏される。もっと平たくいえば、「援交女子」だの「腐女子」だの「かまやつ女」だのというマイノリティ=他者に見る「不幸」だとか「不憫」といった憐愍の情とセット化してるノブレス・オブリージュ的な善意/啓蒙主義、その能動をとることでそのまま発見された自己=リアルになってしまっているという、そういうカタチ(同質社会に於ける非対立調和関係id:hizzz:20040424#p2)でしか〈個〉を維持できない欲情できない構造にハマりこんでいる僕たちという形態の自己の不幸(=淋しさに耐えられない僕)を掘り下げることがないまま表面の議論様式インターフェイスだけをいくつもとりそろえても、それは目的に達することはないであろう。


文字の習得に「文字中枢」〜大人でも一夜漬けで脳が活性化〜
http://www.jst.go.jp/pr/info/info53/index.html
「言語の感受性期をすでに過ぎたとされている大人において、脳機能の可塑的変化が示されたことは、大脳皮質が成人で完成するのではなく、大人になった後も脳が機能的に変化し続けることを示唆する。」んだそーな。がんがろぉ(大泣)。。。