サイエンシフィック

フィクションかノンフィクションかって話題もid:svnseedsさん達との間でかわされてて、面白かったんだけど、「哲学」をフィクションとするのかノンフィクションとするのかは「目的」と「手段」のとらえ方(どっちに重心を置くか)で違ってきて、先の分析系/大陸系が分裂する原因になってると思う。世界を把握する統一理論を夢みたりするのであるが、その為の科学的論理思考が往々にして科学的ロンリー思考になってしまうのは、「目的」=理念=抽象性と「手段」=分析=実証性の間の整合性の問題だ。*1この両者の間で、抽象度の高いもの(文学創作)は「フィクション」となるであろうし、実用度の高いもの(How to)は「ノンフィクション」ではあるが、抽象的世界にスタンスを置くものは実証学問を抽象手中にしようとやっきになり、実証世界のものは抽象的表現で飾ろうとする。ま、どっちがいい悪いのハナシぢゃない。*2
そーいえば『生物科学』で「科学論は科学の敵なのか?」という特集が組まれてて、面白かったなー。*3
ワタクシが考えるのは「スジ」ってことで、その表現に思考のスジが通っているかいないか(整合性)ってことで、それがサイエンシフィックとか論理とかの「普遍」に繋がるものだと考えてる。いくらフィクションだからといったって、最低限のスジが通ってない世界を開陳されても、その世界に浸ることができないものね。表現の一回性しか考えないのが大抵の送り手の意識なんだろうけど、しかしトンデモ読みというカタチのそのスジの混乱ぶりを楽しむ文脈読みの楽しさは、方法論快楽として受け手(消費者)のクリエイティブである。その方法論(解釈)的快楽のひとつのカタチとして、「おたく」「やおい」「ネット(2ch)」な営みが発生してそれが表現側にフィートバックしてくというところが、今日的な表現文化の在り方なんだろうけど、そういう「なんでもアリ」事態に伝統正統的学問がおっついていかない。(だから、伊藤剛さんのおっしゃる「作家論でやおい腐女子を分析する」というのは、近代的クリエイティヴ方法論としては正統論だが、しかし消費行動というまさに現代的な在り方がすっぽり落ちてしまうと考えるのである)

*1:無論、「理念」と「実践」の乖離、んなこたぁ今更ワタクシがカキコする迄もなく、「間テクスト」とかのポスト・モダン的手法がさかんに思索されたんだけどぉ〜。

*2:svnseedsさんはトップダウンボトムアップのアプローチの違いを指摘された。演繹と帰納ってことだよね

*3:岩波の『科学』で、理研の戎崎俊一が、論理性を高める為に関係代名詞の使用と副詞句・節の後置をするという、日本語改造論を提唱してる。