方法論的〈個〉別動機

「哲学」「社会学」といいつつ表象面にとどまってデカイ顔をしつつおもいっきりフィクションというのがここ最近日本でのハヤリだけど、そんなものは山のような現実にバッサリしっぺ返しを食らって自業自得状態なんだろうな。いやだから、次はコレがブランニューだ!とばかりに、欧米発のニュータームに「転向」するということそのものが、方法論的〈個〉別動機としてどーよ?って、ヲチャーとしてはシラケる。多少なりともそゆこと(理念と方法の乖離)を了解してるひとが、なんとか自己の方法論的〈個〉別動機を持とうとして、言語分析のみで、様々な現場にアタッチメントして『当事者主権』をなんとか取り戻そうとしてるんだろうなぁ。それは解るけど、圧倒的な事象の前に、その方法ですら理念でしかないという事実に学究者は対峙しつづけているのだろうか。別に特別で特殊で深刻かつ深遠で高潔な自己動機(環境)を作るということではなく、言及する学究としての当事者のクリエイティブがある(「作家」「学者」「問題当事者=被害者」といった近代的スタンス以外の方法論)とはおもうのだが*1、門外漢のワタクシであるが特にそうした「現実」に言及しようとする学問&学際者の意見で、オリジンな〈個〉にあんまり価値をおいていないことが読み取れると、なんだかなぁ〜とダレてしまう。いや、それでいて要は「オレを認めろ」=淋しいオレ様って趣旨id:hizzz:20040904#p5なんだもん。ううぅ。
※演繹/帰納、理念/分析、なんであれ事象適応の結果によってその「論理」は検証されてはじめて論理立脚できうるもん(=ノンフィクション)、とワタクシは考える。んだけどそゆのはプラグマチックだの悪しき成果主義だのネオリベだ(出たよ>奥さん)ちゅーことで、アリストテレス伝来の三段論法積み木方式の厳格理論でねーのはダメつー唯一手段、コマンドラインプロトコル「お手続き論」で、抽象域をでない議論フローチャートに「論理」を押し込める向きが結構いるんだよなぁ。*2しかし論理(アイディア)が地(事象)につかないイリュージョン状態(事象適応されることなき一回性論理(いいっぱなし)は文学/芸術=フィクション)は、普遍的に論理考察(構造・機能解析)する必要ねーぢゃんと思って「為にする論理/議論」って散々ゆーとるのら。

*1:言語による論理思考と感情思考?の他に、言語を使わないパターン認識によるイメージ思考(数学でいう「群論」のようなこと)は自他に認知されてないダケで、主に実践的分野で言語よりも広く使われているとおもうんだけど

*2:カタチとして演繹論法をとってたとしても、あらかじめ出さなければならない答えが唯一無二のもので最初からあるなら、それって帰納ぢゃんとおもうんだけどぉ…