言語の文化性

「日本語の論理性」っていわれると、そもそも「論理とはなにか?」って根源的なナゾが出てはくるのだけど、…そんな深遠で高尚なこたぁ「論理学」におまかせするとしてぇ(早くも逃げ腰?)、ワタクシが想定してるのは「認識〜行動に到る間=思考に存在する道筋・脈絡・構造」という意味合いでの「論理」である。
「日本語(記述習慣)に論理性はあるやなしや」とゆーのは、それは「言語」と「普遍性」をどう解釈するかによって違ってくると思う。独/仏/英のローコンテキストなメジャー欧米語にくらべて日本語がローカルに文脈依存しまくったハイコンテキスト言語ゆえ、論理科学的普遍性がのりにくいという説は割とあちこちで良く聞く。
「解りあえない」を前提とするか「解りあえる」を前提とするかによって、共通項を予め共有しているか否かという文化の差は大きい。んぢゃあそんなに日本語って閉じてんのか?っておもえど、そーいや日本語の「論理」を背負ってる厳格な部分って、漢字=漢文なんだよね。その厳格な意味を表している漢字をぺったんぺったんと繋ぎ合わせる膠着語。その漢字と漢字の語句をつないでくさまは「連歌」。そして特に曖昧表現になるのは、特に文末を背負った訓読みの大和言葉ってところなのかな。