哲学の2大潮流

大陸系は科学的でないというid:Ririkaさんのハナシである。「我考えるゆえに我有り」は実存主義で最後になった?から冒頭にカキコした言語の文化性もゆらいて、その結果「現代思想」著述はなんでもアリ状態となり、従来の神学論争的世界から自由になれども、今度はカルスタ/ポスコロのハテのタコ壷でちりじりになってしまったのではないだろうか。そしてそれでは流石にヤバいと、デリダとハーバマスがそれぞれの論説理念構造そのものではなく、「政治的責任(ヨーロッパ的アイデンティティ)を規定する」という実践へむけてのプロトコルに於いて合意して、共同声明を出せた。その反帝国主義の中心には発展/拡大を志向する自己文明への懐疑があって、それが思考理念としての「反科学」になるのではないかな。しかし理念に拠る全てをコントロールする人間本質主義が根幹にあるみたいだからなぁ。そゆ経過はとても興味深い。2人の共同声明も、ヨーロッパ中心主義(帝国主義)の離脱をいいつつ世界規模の内政を企むという、平均台でのアクロバット体操のような妙技なんだもん。
でそんな大陸系と分析系のガチンコは、理念から理論化するか、現象から理論化するかの方法論の差だろうが、お互いにとっては、そういう思考経過(演繹/帰納)を選択している基準価値観=思想が、人間行動の最上階に存在してしかるべきと考え続けた。論理学を踏襲して論理をふりまわすところの学問、哲学のそういうふるまいは、論理の価値は理念によって決まるというのは「宗教哲学」の時代からなんら変わりはないのぢゃあないかな。自分のアタマ内で整理つけばそれで実証もセットになってヒエラルキーを容易に構築できた単一論理な時代に比べて、様々な世界、科学的実証性も含めて多様性ということをどうその思想に加味して統一理論をつくるかということになると、思考方策として「初めに理念ありき」という仮定をたてアイデンティファイしてしまうことから始まるハイコンテクストな大陸系のその仮定そのものの科学的根拠は、門外漢にとっては????となり(理念はもっともコアなものだからそこに疑問をもつこと自体が正しくナイといわれんだけどさー、それって宗教そのものやんか)、以降いくら精緻な思索理論をかさねども、フィクションと化してしまうのだろう。
しかしそんなカントから続いてきた「哲学に拠る大文字政治」への意欲、そぉんな大風呂敷を掲げてくれる華やかな大陸系哲学は、ちまちました村政治/制度にからめ捕られてショボくれてる多くの日本人にとっては、現実的でガリガリのプラグマチックで地味な分析系よりゃ、とってもハデでデカイ夢=イリュージョンを見させてくれる存在なんだよなぁ。とはいっても、最近のゲノム科学や脳科学等の巨大データに導かれる人間の機能構造の驚異的な実証解明とその相互分析(データ・ドリブン科学)は、物質(ノンフィクション)より精神(フィクション)の優位性でもってして言いたい放題してきた大陸系思想に対して、有無をいわさないものもがでてきたからなぁ。したから、その精神存在価値の普遍方向としてよけい「大文字政治」を志向せざるを得ない、とか?ってことかな。。。