発想と技術と場

人間は慣性の動物であるから、なにか新しいもの対応の変更を迫るものが現れたとき拒否をするのは、それまでの生活行動を守るという動物的本能からいけば、自然な行為である。それを納得させるには、納得させる為のカタチ(実証に基づいた概念のビジュアライズ)が重要である。そしてそれは、今はない。とにかく、この地では、なんであれ推進も反対も判断論拠(=責任の拠り所)はいつも外国(特に欧米)の御墨付き「黒船」だよりとは、これいかに。
いくら世間のそして役人の無理解を研究者が嘆いた*1とて、それが良いものであり通したいと考えるならば、欠損を嘆くばかりではなく、自らが表現していかないと、コトは始まらないのである。それは、丁度、ゲノム解読がシーケンサー技術開発という道具を自らこしらえる必然と同じであって、発想/技術/場というこの三位一体を廻すプロデュース作業は、どんな仕事でも(それがたとえエコ運動というボランティアであろうとも)ついてまわる根本的ファクターでないのかな。言葉の指す方向は違えども、どんな立場にいようとも、表現/ものづくり/商売とは、なんであれ仕事とは、そゆモンをいつも含んでいる。各人専門ギルド化してそこでモクモクとやってりゃいーという古い職業感では、もうなにも立ち行かない。それこそが情報化社会たる現代そのものでないだろうかね。現代を語る人々は、こゆことを把握して仕事してるのか、すっごく疑問。「高度情報化社会」と結論づけて終わってるケースが多いんだもん。なんだかなぁなのだ。

*1:いかにしてそれが出来たのか/画期的な価値なのかと、それは産業になるのか/それによって日本人の雇用創出ができるのかという判断基準の齟齬