ライフスタイル・コンフリクト

ワタクシとしては、リーマンだろーが、セレブだろーが、無職だろーが、ヒッキーだろーが、現に成立している個人のライフスタイルを上げ下げ評価する風潮はどうかと思う。特にニートとされる学卒無業者は、無学歴者に比べて少なくとも就職機会は広いからだ。がしかし、毎年発表になる就職希望者が殺到する会社ランキング。大卒22歳で入社したとして定年迄38年間その会社が期待されうる上位にランキングしつづけてるということは、もうありえない。だのに、上の世代はその方法論=高学歴→高収入エスカレーター方式が唯一解とし、少なからずの当人達もそれを身体化してしまって硬直してること(勝ち組/負け犬だの)が問題になってるダケだと思う。
長寿社会で消費を回して社会を成立たせていくということは、仕事を家庭を消費するということでもある。だから循環型「エコ」っていうご都合主義のレトリックにひっかかる向きもあるであろう。しかし、その御題目は、エコというブランドを消費するという行動に存分に収斂される。目下、健康という名目が消費されてるように、加齢ということも同様。いくら小難しい学問履修したとてソレは単に知識消費でしかないから、そこで完結終了して、学校以外の外社会のその先がナイことにすぎない。だからといって、それがただちに「悪い」という評価を下してはならない。遊学、マニア、趣味ってそゆモンだしね。「高等遊民」って言葉はムカシからある。ただムカシはそゆのは、資産家のなまくら坊ちゃん嬢ちゃんがヤルものと相場が決まってた。
いや、だからそんな世の中に反発して自分は篭るんだっていったって、そんな有り様を他者に消費してもらうこと=認証という「忖度取引」は、社会派に於いても営々と執り行われている。この手の事柄についてなんかかんかエラソーなコトいってコジレてくひとは、そゆ本音と建前の欺瞞に自己が耐えられないからだろう。生きていくってのは、そゆ混濁に耐えることでもあるからなぁ。。。
ともかく、だから、学校がつまらないと中退するのである。仕事がつまらないと離職するという理由が成立するのである。だから、家庭がつまらないと就職するという理由が成立するのである。しかし、それは食うために仕事に家庭にありついた上の世代の人々にとっては絶対に納得されないことである。なぜならば、それを認めることは自分達の人生の否定に繋がるからだ。
そうすると「解りあえない」を生きていく智恵に心血を注いだほうが、大文字の問題に繋げようとして座学(+非現実な空想)でこねくりまわすよりも、精神衛生上もよっぽど効率がよい。