自家中毒

しかしそうはいいつつも、自分の来歴(良くも悪くも戦後民主主義謳歌した時代)が解り過ぎるほどわかっていればこそ、橋本は明治以前のこの土地の文化の脈絡を延々とカキコするのかもしれないな。Beltorchiccaさんがひいておられる対談では、仲俣暁生曰く「橋本治の突きつけた問題を乗り越えることは無理にしても、回避することはできないはずなんだよ。少なくとも、いまの40代くらいの物書きは」ということらしい。これまたものすごいメンタリティ(苦笑)。文学はセンチメンタリストのものなのかぁ。はぁ。

ある女子が京大のイタイ女の話をし始めて、「そいつ橋本治とか読んでてーヤバイよねー」と言ったら、一同「うわーそれはイタイねー」と同意してて、私はちょっとせつなかったです。

橋本治チルドレンは思い付きでものをいう!?」
 02 2004/12/29 Beltorchicca

今日的橋本治へのブンガク的表現としては「蹴りたい背中」って存在ってことかな。
しかし、橋本治尾崎豊もイタイつーのが、キチンと把握できるからこそ、フェミもリベラルも近代思想として90年代で衰退してくんだけど。

西洋から「主体」という意識の持ち方を学んだ近代日本ではむしろ、他者と葛藤し自己主張する「主体」の醜さを嫌悪する側面が多くあった。そのとき望まれたのは、主体をより少なく持つ意識の在り方であり、その究極の在り方として無垢、つまりは主体を持たず完全な客体としてだけ存在することへの、不可能と知っての憧れが生じた。
こうして大正以後、美しく可憐な少年と少女が無垢の象徴として憧憬された。

高原英理『ゴシックハート』

衰退していくとわかりつつも「団塊世代の忠実な消費者でありつづける」(@大塚英史)サブカル世代は、今更路線変更は不可能というのであろうか。戦略偽装でもマジでも「アタシってカワイイ(ハァト)」(=愛玩物=無垢な客体)そんなメンタリティの持ち方、近代的センチメンタリズムが「キモイ」ってことの正体なんだけどなー。