文学運動

だからといって、私文学運動を排除しようというのではない。問題意識に対する「主体」の持ち方から結局、プロレタリア文学の昔からこうしたリベラル陣営がすべからく私文学せざるを得ないというこの表現結果。いや文学形式においてもっとも自己吐露解消出来うるという自分たちの思想システムと、その戦略による「運動」の先細り現状について、もっとトータルに検証したほうが、「運動」にとっても、「運動」をささえる「イズム」にとっても、「イズム/運動」の本来的目的にとっても、そゆことをプライオリティとして自らをアイデンティファイする人にとっても有益なんぢゃあないかな。ワタクシはそゆことのほうが、思想問題=普遍だとおもう。
尾崎豊橋本治をとりあげて「文学なんか自業自得」って纏めたワタクシもかなり確信犯的悪なんだけど、そのid:hizzz:20041230のカキコに対して、id:jouno:20041231さんは、「決定的なロジックを発明する」ことが思想の役割だとおっしゃっていて、だから橋本治のあーでもなくこーでもない堂々めぐりの文章は「分からない」とお書きになられる。一転して、id:iduru:20050101さんは、「わざわざ体系化しなくてはならないような論理さえ実は橋本氏は必要としていないが故に、体系化する作業を飛ばしている」と指摘される。id:bmp:20041230さんは、橋本と同時にふれてた尾崎豊に対して「尾崎の良さは「詞」というか「響き」にあるのでビジュアルと「物語」は本質的に必要ないのだ」とおっしゃられた。
だからそゆトコで始めて表現される「思想的ロジック」にならないものが自由に息づくのだとおもう。矢部くんの文章もそゆトコで始めて息づく。それを無理に思想的ロジック=デジタルに変換しようと均す時におこる嘘とキシミ、どうしてもそうしたいのなら、それは表現側で常に前提問題として把握しとくべきであろう。>〈パーコ麺〉それを無視して文学を思想政治化すると、折角の文学のもつファンタジー=豊かさがなくなってしまう。その豊かさを保つ為には、なによりも、本を閉じたら日常に還ることが肝心かと想うのよ。