食って生きる

無論オレ様自己完結する思想信条の自由は充分にある。ま、ダイハードな世間には、固有の活きざまを勝手に一緒くたにするんぢゃあナイよボケ!といって、フツー=日常を実践する、平和ボケかましのんきに腹をすえてかかりゃあいーのことよ。元々、制度からハミでる〈個〉が問題の元となってるのに、同時掲載されてた渋谷望「万国のミドルクラス諸君、団結せよ」という、ナニがナンでも「団結ありき」で帰結ループしてる左翼アジには、あまりの浮世ばなれぶりにハァァア????っていう他はない。団結すりゃあ問題解決すると想ってるのかしらん。
ともかく、生きてく、その為には、「たかり」と他者にいわれよーが、当事者間で忖度取引でもなんでもしてインフラ整備。演繹把握するというのなら、日常のメシをどうやって調達するのか、そこまで肯定して始めて勉学だか旅行だかヒッキーだかプーだかが、卓上思想/妄想から現実に成立ち、個々の生活が回っていく。
そうした時に、「ポストフォーディズム的労働」視点強調で労働を自己の世界=選択肢から追い出すことは、逆にアキレス腱となりはしないかとも思う。
そのインフラを引きだす手段として、こうした居丈高な煽り=オレ様ファシズムが、たかる=生活手段調達対象者に効果的なのは、極々一部の特殊な支配関係でしかなく、これに焚付けられて鼻息荒くしても周囲と関係悪化して居場所なくしてクビしまるのがオチなんで、くれぐれもマネしないよーにっておもうのさ。そゆ意味で思想的普遍には欠け、エッセイ私文学になってしまっている。