藻前モナ〜

栗原祐一郎さん曰く、「矢部のいう「労働」「労働者」はポストフォーディズム的労働を指しているので、そのへんをどう考えるかってあたりが最終的には争点になるでしょうが」とお書きになられてる。id:ykurihara:20050116
問題の文章では最初にヴィルノ『マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために』を引きあいにだして、ポストフォーディズムについて規定している。それはそれで問題なんだが、それ*1についてはワタクシもさておきなのである。
今回ちよっとどーよ?というのは、まさに栗原さんが引用されてることをフォロー=資質の全面解除する為に、それとは違う行動を表している他者の「資質」をあれこれ問うてジャッジしていること、そのことに他ならない。
「なにを語るにしても視点がない。話を聞いていてなんの足しにもならないし、あまりの次元の低さに頭がクラクラする。」ということは、そのカタガキに関係なく誰にでも当てはまるのである。散々、労働者を名指しして資質をアレコレ問題にしてるくせに、勉学や旅行になると「理由なんかない」という。それは対象者によってジャッジ規定を使い分けている論理矛盾。しかも使い分ける根拠も示されない。なにしろ「理由なんかない」だからな。そんな自己完結をオレ様っていうんだけど。その資質を問うた対象がポストフォーディズム的であろうがなかろうが関係ない。
その論調でいけば、なにを語るにしても視点がない、話を聞いていてなんの足しにもならないし、あまりの次元の低さに頭がクラクラするフリーターやプーやニートは価値なし!って断罪してる「新聞屋」と同じことを矢部文は言っている。価値の押し返しをしてすっきりって、バカにバカいうバカ戦争id:hizzz:20040602#p2でしかない。掲げるモラルジャッジによる排他的行動で「敵」を増やしてるダケ…それぢゃあダメぢゃん。ドコまでいってもソレってファシズム自家中毒なんだもん。
そもそも日常/生活ってコトは、こんな高尚なオレ様がわざわざ貴重な創作時間を割いて娘のおむつ換えるのがどうのこうの(で「苦役」でしかない)とトクイ気にカキコしてる底レベルのことなんですかねぇ。>矢部くん
フォローしようと言及された対象者であろうフリーターやプーやニートは、それをどう評価しようがまさに他者のフォーディズム&ポストフォーディズム&ただの労働成果上でささえられてた生活形態である人々であるのにもかかわらず、id:hizzz:20050104#p1でカキコした通り、「たかる社会にたかる人々」という形態で見られてる人々へのフォローは、(ポストフォーディズム的)労働をバカにすること(自分制度内の序列化)では達せられないのである。

*1:そもそもポモ/カルスタを引きずった「現代思想」の来歴というものがポストフォーディズム的労働の集約の上にでしか成立たない文化でわ?つー命題