内面の問題

星野智幸さんが、「内面の問題」をお書きになっておられる。

端的に言えば、「主体は幻想である」と語る人の主体はがっちりと守られていて、手つかずだったのである。冒険をし、形骸化した形式を壊していく「野蛮」で「顰蹙(ひんしゅく)」もののクラッシャーをもって任じていた人たちは、実際には、「内面の問題」を禁忌とすることで、自らの既得権益を大切に守っていた。今や40-50歳代のかれらが「野蛮」を口にしながらその実、保守的に見えるのは、既得権益を手放そうとしないからである。そのような立場にない人、つまり主体の問題、内面の問題をいやおうなく考えざるをえない人、直面させられ続けるマイナーな人たちは結局、その存在を認められてこなかったし、今でも認められていない。

星野智幸 2005年1月11日
http://www.hoshinot.jp/diary.html

90年代にオウム事件とかあったのにもかかわらず、いやあったからこそ、いそいで自分たちを大いなる正義(=大文字の物語)の木の下で主体を守りに入る為に左旋回したリベラル派のポストモダン*1。「自己はいついかなる時でも絶対正義、だから敵対者は罵倒排除してもいい」ってことダケは主張表現形態がかわっても根底に「主体」としてあった*2からこそ、「ポストモダン左翼」なんていう語彙矛盾をへーきでいって、そのことにまたナンの矛盾もツユ程も感じることがナイ「(自称)運動家/思想家」なオレ様方が、沢山いらっしゃった。そんで、その矛盾をツッこむと、「ネオリベ」とかいって*3排除してお済ましになるという、よーわからん論理構造。今ソレをツッこむと「ポストモダンなんかもう古い」と。前(と、いっても1〜2年前)に「ポストモダン左翼」と言い張ってた自己は、なかったことで終了。それで思想ギョーカイ的にはなんの問題もない、らしい。でも、日本人であることダケは末代まで我が汚点として世界に懺悔しなくちゃあならないらしい。といって、決して「日本=自分とはナニか」的議論は日本的ナショナリズムに触れて怖いことになるから、考えないことにして、オキナワとか在日に全面的共感をめいっぱい表明することで、自己の立ち位置をカモフラージュする。もちろん、日本全国津々浦々のストリートで70年代から実力行使運動でもって学校&官憲等に「抵抗する主体」な低所得&底学歴で構成されているパフォーマーな方々=ヤンキーなんかも、自らの来歴=ナチュラルボーン・ヤンキーを思い起こさせるから、いっさい無視。ジャマイカとか欧米のトレンドはチェックしても自分の足元見ないから、「サウンドデモは自分たちの発明」とまで主張なさってはばからない。あくまでも「抵抗する主体」の知的所有権(承認認定権利)は左派リベラルでなければならない、らしい。な、なんだかなぁ。。。
アレですな、こゆ方々の主体とは、いかに「社会思想ギョーカイ的にイケてる自分を表明する」かという命題のクリアが最優先であって、その中身と自己の論理的一貫性(自己無謬性)は、決して省みられることはない。なんてったって「ポストモダン」でも、大いなる正義=「抵抗する主体」でも、それ=自己責任は、さい先に解除されてるから。あ、キビシクなったら「降りる自由」というジョーカー的PCカードも当然ありますです。。。
温故知新で言葉づらだけリニューアルされた「抵抗する主体」で、90年代のボロを「なかったこと」にする「思想」という大フロシキを掲げる割に、あまりにもその場しのぎな御都合主義なルーズな態度は、いかがなものかとワタクシもつねづね想うので、こうしてウンコずわりヨタをシツコクシツコクシツコ〜ク飛ばすので、あった。
星野さんは、「ひと言で答えが出ないから小説を書く」と、ご自分の方法論を明示されてる。

*1:無論、これとまったく同じ理由で右旋回なさる方々は「ぷちナショ」

*2:don't trust over 30(60〜70年代学生運動)→成熟しない子供(70年〜ポストモダン)→オレ様自己中=幼児的全能感(90年代〜現在)

*3:そのフレーズはギョーカイ・トレンドとしては「陳腐」化しつつある、らしい。。。