『現代思想』

学者は論文がカキコできりゃあいい、活動家はアジ出来りゃあいい。その手のシンパは、そゆ方々の表現キーワードをコピペすることで、自己正当化できりゃあいい…。
ま、そゆ内輪の循環運動が『現代思想』なのかなと想う。そもそも昨今の現代思想ギョーカイのトレンドのバイブル『<帝国>』。その表題事態がタダの「帝国」でなしに〈〉付の帝国であるように、「抵抗する主体」=左派リベラルとやらが抵抗すべき標的の思想的成立=「マルチチュード」の言葉に心血をそそいだ本であり、まさに先にカキコしたように、ネグリ&ハートの目的=論文カキコはそこで達成され完結したのである。したから、栗原さんがお書きになられてるようid:ykurihara:20050116 に、社会改革のツールとして読んでしまうと「具体的にはじゃあどないせいっちゅうねん!」となるのである。*1
ワタクシうかつにも「社会活動家」という方々と「社会思想運動家」という方々を両方共「活動」=実践実務にシノギをこらす方々と、牧歌的におもっていたんですが、ちがうんですねぇ。コレ。黙々と日常的に実践実務に従事されてる方々は、ボランティアなどの「社会活動家」。デモや集会に屯ろして「マルチチュード」などその時々のギョーカイ・トレンドを次々に消費する方々は、「社会思想運動家」なんですねぇ。
現代思想』は、そうした地べたの「社会活動家」ぢゃなく「社会思想運動家」の御本だから、その消費者たる彼等のニーズに応えられればそれでいい。彼等の〈社会〉とは、ネグリ&ハートが示した〈帝国〉的社会に「抵抗する主体」達のソサエティという、エラク限定された特殊なエリアである。いや、だったら、数多のマニアやアカデミック学会のように、最初から最後まで「哲学」として厳密限定内で抽象論をアレコレやりとりしてりゃーいーぢゃんとおもうんだけど、なんだかタダの思想とはちがう「社会思想」=革命ってフロシキを広げて、他領地植民地活動に萌えるオレ様教条主義が根本にあるから、〈帝国〉vs「抵抗する主体」という二項対立的世界観とそれに支えられたPC(=搾取されてる自分)による自己実現(=自己が被害者/弱者である責任解除→自己現状肯定)が成立する。

*1:前回カキコid:hizzz:20050116したとおり、サッサと本を閉じて日常に向かうことなんだけど〜