社会思想的コジレ

いや、別にいーんですよ。ソレ独り静かにおやりになる分にわ。そゆ自己肯定作業だって自覚なさってる分には。昨今問題となってるペドとか「フィギュア萌え族」でつか(苦笑)そゆ数多の趣味や信仰による自己満足/自己肯定と同じ、「文学」だって申し上げてるので。
「社会」ってワードを騙れば社会派になって「自分は社会に貢献しているのだ」ってオレ様、他者に押付け差別侮蔑排除することによって自己実現が成立してる陳腐さを薄々でも自覚してるからこそ、「社会思想」を声高に言い張れば言い張る程に、「言ってることとヤッてることの違い」がいよいよ明確になる。しかもその論拠とするバイブルが「禅問答」的文章で、具体的実効性あるものでないとくれば、ダブルスタンダードを生きるハラをすえてないとコジレ直行するっきゃナイ。
ひとは仙人ではいられないのである。それダケ、身体は正直ってことでもある。ま、そーすると、ひとってのは基本的に自己肯定しなければ生きていけないみたいで、コジレない奴はおかしい=「コジレるアタシは正義」的PCの立て方をする者も出てくる。そんなところでループしてたら、益々特殊タコ壷世界からはでてこれない。
そこここで見るそーゆー問題、なんでスルーするのか、さっぱり、わからんちん。こゆ問題に着手して始めて「社会運動」の思想が、市井の世間に着地する契機となるのにさー。「フェミニズム」でも「フリーター」でも「ニート」でも、そゆことに言及して共感を示しさえすれば、一見、世間にコンタクトしてるようでいて、実は自分たちの思想文学文の補講の為にこうした問題を草刈り場としてるダケで、その問題解決に関しては、まったく関心や努力や智恵を尽くそうと想わない、それダケならまだしも、そうした自己成立の為に対象とした「弱者」対象者を、本心では軽蔑してる。なんかかんかいっても、「強者vs弱者」という二項対立を基調とした運命論信仰であるから、弱者はいつまでも弱者でありつづけなければ、自己成立的に都合が悪い。したから、よりまったき正統な弱者を求めてそれに依存するし、ときには弱者当事者が自己の不都合を解消しようとする行動を糾弾して、弱者エリアにおいこもうとさえする。が、決して、隣りで泣いてる弱者対象者の瑣末な日常コンフリクト解消の為に、自己時間を割いたりドロをかぶりろうとはしない。
そんなこんなをスルーしてやっとこさ成立つとする脆弱な「思想」「社会運動」論なんざぁ、とてもぢゃないが市井の数多の普遍に耐えられないぢゃないか。「社会正義を言い立てるワタシ」に酔ってるダケの成果で口ほどにもない、顔をあらって出直してコイ!って小一時間シバキまくりたくなるのは、ワタクシだけですか、そうでつか。