母神

いや別に、だからといって女が大変な訳ぢゃない。太古的大地母神崇拝ってのが洋の東西南北を問わず、なんでアメニズムとして普遍的にあるかといえば、ダレの腹から生まれてきたんだ?って厳然たる事実があるからだろう。その分だけ、男性のブが悪かったってことなんで。それをなんとかしようとして、〈男〉なるものをブチあげて、それの維持管理が始終大変だったダケなんで。わははは。
先に上げた本で、澁澤は『断腸亭日乗』の黒丸システム*1をネタに、荷風の性意識をこのように記す。

とりわけ荷風のような、子供を生んだり家庭をつくったりすることを根っから欲せず、女を性の玩弄物としてしか見ようとしない男の場合、この喪失の意識、死の意識は、いよいよ鋭く研ぎすまされるはずであろう。なぜなら、女と人間的な関係をもつことができず、(『墨東奇譚』の男の例を見よ)、中村真一郎氏の評言にあるように、ひたすら「ガラスの城」に身を閉じ込めて、絶対に他人のなかへ入ろうとしない精神にとっては、性のメカニズムは、あたかも自己運動する機械のように単調な興奮と喪失の繰返しでしかありようがないからだ。機械はやがて油が切れ、老朽して動かなくなるであろう。永久運動の機械はあり得ないのである。いかに「閨中非凡の技巧を有する」女に出会ったとしても、である。

だから、意義がある性=しずか=理念を全精力をもって作り上げ、そこにセックス・コンシャスがあるとしとくんであるよ。
だから、そのシステムの殻を破って主体をもとうとする者の力を、そいでおかなくてはならない。「閨中非凡の技巧を有する」女は、膣に歯を持つ女として、しずか=〈少女〉とは、欲望そのもものが存在することを意識しない女にならない女(=性の快楽を知らない女)として、幾重にも抑圧しパワーをそいで手なづけ、システム=〈男〉社会の保全を図る。が、その手なづけるネタを維持しつづけるのが、ちょ〜大変。結果、口ほどにもナイと、その足元を見られてソデにされるのか〈男〉は(苦笑)。
リブから始まったフェミが90年代になんで終わってしまったかってのも、実はソコだと想う。個々の論説はどうであれ、総体としてフェミ女性が「女は大変」って言説を引受けてしまったから。だってそしたら、後は「女性問題」として、女性自身(=しずか)が解決すべきものって、多くの(男女問わず)フェミシンパが共感しちゃった*2。そのしずかぶりっこ(=インフラ・エリート)を見た若い者はそっぽを向いた*3。そして問題当事者にこの問題を突き返されたカタチなんじゃないだろうか。そして反ジェンフリに晒されて尚更、ファミニズムの枠をでられない。

*1:性交時の日に黒丸をつける

*2:昨今の運動シンパを支配する大多数の共感主義は、共感を表明することで行動を終了する。

*3:しずか=〈男〉を引受ける〈女〉(=良い子)なんてしんどいことヤんのなんかヤダと実践して、フェミ的課題は終了とした。