妹の力

「日本人は、ヤンキーとファンシーで出来ている」とズバリいったのは、故ナンシー関
な〜んてコトいうと、底所得底学歴層のハナシかとおもわれる向きもあるやもしれぬ。しかし、それは甘い。
柳田國男の昔から、しずか&不思議タイブしか出てこない日本の近〜現代私小説、御姫様とお嬢様しか出てこないガンダム系アニメ、昨今の『戦闘美少女の精神分析』ゴスロリに到るまで、日本の「萌え」=セクックス・コンシャスは、ヤンキーとファンシーひとすぢ。
澁澤龍彦の、彼にしては珍しい日本文学が書かれている『思考の紋章学』の中に「姉の力」というエッセイがある。このエッセイは、まずバロックの詩人モーリス・セーブ「女体の賦」からはじまって、ボードレールフェリーニの「巨大な女」そして林達夫ときて、柳田の『妹の力』から連想することとして、鴎外『山椒太夫』の安寿の書かれ方に着目*1し、死を決意した姉の輝きを強調することで、この中世の黴びくさい物語は、大人の為のメルヘンとなりえたとする。さらに、日本&中国の観音とイシスの共通点をさぐる為に、あのキルヒャーが登場する始末。わ〜い、わ〜い。いやぁ、〈女〉の力って偉大だなぁ。わははは。
ハッキリいえば、ついぞ西欧的〈男〉〈女〉の対峙するエロスというものは、この地では擬態としてしか根づいてないんぢゃあないだろうか。なんたって主体というものの獲得に失敗しつづける快楽を謳歌しつづけてるからだ。

*1:漱石と違って生涯『鴎外―戦う家長』 ISBN:4101170029(ああっ、品切れだ!)をやり続けた鴎外ならではといえるかもしれない。安寿は、ジャイアンという日本近代をかかえた鴎外の同志なのだ。