リアリティ

ハナシは、夫がヂであったことから始まる。スタイリッシュな彼にはかっこ悪いはばかられる病気であるとともに、穴が腸まで続いていると言う医者の言葉に、行き止まりと思ったが、まだ奥がある不安を思い知ることになる。漱石の死により未完となったが、主題は「まだ奥がある不安」であるのだから、小説的に帰結をみたとしても(ノコノコ逃げられた元カノに会いに行った夫、さらに墓穴で鉄槌くらう?とかあったとしても)、本質的には終わりはナイであろう。鴎外のハナシでもカキコしたとおり、徹底的な悲劇は、この渡鬼な密着世間では、毛頭出現しないのである。悲劇もナイことが悲劇=終わりなき不安であり、このささいな騒ぎがエンドレスで執拗に書かれて始めて、その終わりなき不安こそがリアリティを持ちえるのである*1
またこのハナシは、立ち位置のドラマでもある。自分の自覚する姿、自分の理想の姿、様々な関係他者に映る姿、様々な事象に反応する姿…。このような様々な関係からの距離の具合で思いがけず自他にあぶりだされる像が、このドラマの登場人物すべてのキャラをつくる。ハナシに出てくる者はみな凡庸ではあるが、そのあぶりだされる実質的なもので、きわめて魅力的な人格をもつ。
だから、このハナシは理念や思想で全体が構成されてない分だけ、現代に通ずるプロトコルになる。このハナシの世界では、誰しもが「安泰」ではない。厳しくやりこめられるのは、妻であるのだが、どっこい、そんな妻の本音や覚悟が露呈してく程に、教条的に意見してた者のその優位性が揺らぐことにもなる。他者によっていとも簡単に自己の構築した世界がくつがえされる。広く高邁な理念は実は視野狭窄でしかなく、通用しないという事態。なんであれ建前がくつがえされた時、はじめてリアルな自己を、自己の奥を、自己が知ることとなる。他者が知ることとなる。そしてそれによって関係位置はいとも簡単に動く。
そのせめぎ合いのリアリティを支えるのは、始終「会話」=音声言語なのである。だからこそ確信的な文言は口には出さないで、非対称序列関係に折伏したいのである。>暗黙の了解=モラル

*1:友人があやぶむ(予想される悲劇として)妻が自殺したとて、結婚寸前で逃げた女の変わりをこしらえて何事もなかったかのようにしたのと同様のことをこの共同体はするであろう。追詰められる妻がそれに気が付けば、活路が開けるのだが…