ヌードのポリティクス

〈女〉の観点から女性写真家の仕事を追った本、笠原美智子『ヌードのポリティクス―女性写真家の仕事』
某所でかなり好意的な書評を目にしたので読んでみた。
「〈女〉という視点に女性作家を囲い込むことは逆差別ではないのか、今は既にジェンダーという視点を越えて語る時代に入ったのではないか」という論には、「十年一日ごとく男の目から見た女のイメージやヌードが氾濫してる」事実をもって、異を唱える著者のスタンスである。
が、ダイアン・アーバスを論じた帰結は、あまりにもいただけない。

ダイアン・アーバスは女性写真家として括られるのが嫌いだったそうだ。
…しかし私はアーバスが、彼女に会った多くの人が口にするようにいつまでも少女のように内気な印象ではなく、醜さも美しさもひっくるめたあるがままの成熟した女の姿を受け入れ、カメラを通して被写体に対峙した時のように自立し、自らを女性写真家として客観視し名乗るほどの勇気を持てたら、精神障害者を写した作品で終止符を打たれているこの天才の未完のポートレイト集の、次のページを捲ることがてきたのにと、残念でならない。

自分好みを他者に押付ける=ポリティクスの発動は、そこいらの男根主義者がこの手合のアーティストにナイトづらして繰出す文言とまったく同じではないか。あまりの記述に、あいた口がふさがらない。*1
この著者は、〈女〉というカテゴリーと個人という主体があまりにも同一化されすぎており、それに従って個々の作家をそこに押し込めようとするが、「視線のポリティクス」をなによりも発しているのは自己であるという自覚が薄い。あくまでも〈女〉という思想=大枠の中の多様性を賛美するのなら、〈男〉〈女〉という枠そのものを越えることは不可能である。ジェンダーに挑むかのような表層をまとっていながら、その枠自体を否定公言してたアーバスを、ジェンダーの枠の中におしもどそうとするこの論評は、フェミニズムにかこつけた御都合主義ですらある。*2
〈男〉〈女〉という思想以外でも、戦略的に政治性を積極採択する作家はいる*3し、後から政治性を帯びてしまう作品もあるだろう。しかし多くのアーティストは政治(や思想)の為に作品こさえてるんぢゃない。むしろ、そゆ文脈(の挿し絵)でしか消費(観賞)されない作品は、作品として自立してるのかという大いなる疑問があるんだけど。それでもいーと結果的にいってるこの評論集は、作家側の観点からしたら、ただの傲慢でしかない。
てゆーか、現代アート、特に映像/写真といったジャンルは、なんだかヤタラこの手の文脈評論の中ダケでしか生息できないものが多すぎる。送り手/受け手共に、見る力の喪失が、過剰なポリティクスを発動させるっていう悪循環があるようなカンジ。

*1:いわゆるAC的女性に対して、リブ&フェミは「成熟した〈女〉」という理想シバキ主義に陥っているのに「弱者である〈女〉の連帯=共同体」思想の持つ負(〈女〉間の上下階層構造)にあまりにもデリカシーがない。いわゆる「〈女〉って、あんたと誰?」みんな問題である。

*2:リブや一部のフェミはこうした論を権威展開する者が多い。〈女〉絶対正義思想主義者とでもいおうか…>オニババ本批判の田中美津id:hizzz:20050109#p1 そしてこうした言説が「〈女〉のことは女が語らないと…(故に〈男〉は〈女〉が判らなくて当然)」的ジェンダーを補強してる事実をいつも無視してる。「やられたらやりかえせ」的な暴力ぢゃなくって、そんな装置に無理やり「語らせられる側」の悲鳴こそが、「視線のポリティクス」問題であり、それこそフェミニズムが取り組むことだとおもうんだけどねー。

*3:ただ政治思想というのはあまりにも強力な権威装置ゆえ、それと作品性のバランスがとれてないと、作品はただのプロパガンダとなり、政治思想を越えた社会性を喪失し矮小化する>プロレタリアアート(社会派リアリズム)、スペイン壁画運動等