2度あることは、3度アル?

日本の歴史の特異なトコは、常に実質支配と名目支配が常に分化してた…というより、実質支配権力が自らを保証するというカタチをとることがなかったということにつきる。
とゆーわけで、結局、江戸も明治も変わりゃせん。「徳川」→「薩長」、「中華」→「西洋」、「天下」→「国際社会(帝国主義)」つー御題の変化(御一新)はあれど、その構造枠はついぞ変わることはなく、結果、同じよーなプロセスをたどって、同じよーなコトをやらかしてるのである。
自由主義史観でも自虐史観に準拠するでも、その心境は理解できないことはないんだけど、〈史観〉というイデオロギーに史実をあてはめる論理の危険性は、イデオロギーの補強でしかなくそれは〈思想〉もしくは〈文学〉でもって、〈歴史〉とはほど遠いものである。特に史観論を見てると、自と他、内的自己と外的自己が混在したままで、そういう視点からしか〈歴史〉を見ることをしないのは妙なことである。もうちょっと別の角度から変遷を省みるという作業をしてもいいのではないかと思う、この頃。
もっとも、史観派な皆様がどーこーいおうと、記述される公的歴史=受験勉強としての歴史は、山川出版の教科書に準拠してるのが、日本の大勢なんだけどね〜。