生活蔑視

自由主義(≒皇国)だろーが自虐だろーが、どっちの〈史観〉もなんだか現実バナレしてるのは、戦後経済発展という経済現象を取りこんでない、、、てゆーか、経済蔑視がその根底にある。
んぢゃあ、その経済蔑視ってドコからくるかと考えるに、学問思想=高尚、商い=下賎なヒエラルキー。すなわち「士農工商」なんだよねー。
さてその「士農工商」。ドコからきたといえば、勿論中国産の儒学。が、しかし、その「士」は本来は学問思想を指してたトコを、「武士」に入れ替えた。幕府官学としての朱子学が、そうやってやっとこ単なる殺戮技能者にすぎない用心棒連中の身分を保障した。保障したのはいーが、殺戮技能で実力行使して「下克上」されては幕府は困る。秀吉時に、他の連中を刀狩で武装解除させたが、武士も武装解除させねばならぬ。ならぬが、刀それ自体は取上げられぬ。したら、刀それ自体を封殺する必要がある。そんなトコに収まりがよかったのが、学問奨励なんだよな。
そうしてアカデミズムの中に、抽象的なこと程普遍であり高尚で神性なもの…みたいな意識が営々とある。むしろ知識特権階級として浮世バナレを誇り尊ぶ風潮すらある。だから、そうしたアカデミズムの中からは、日常社会性と取結ぶ契機、生活手段が見いだせないであろう。
西洋体系学問がアカデミズムに根を降ろしたが、本家西洋にはない理系文系的な学問腑分けが大手をふっている。これは、儒家=文系と、道家=理系な見方が続いているじゃないだろうか。儒家=抽象思想=人工天下=文字体系からみた、道家=具象技術=自然生活=実務体系という蔑視感。金銭にまつわる蔑視観も、その一環であろう。その価値観の中で学問とは、武士は食わねど…な霞を食って生きる、まさに仙人志向なんであるよな。そんな心境で既得権益にドップリつかってる「体面」重視な学者様に、個々に自律する生活手段の教授とか、現実との交渉手段とかを期待するのは、まずムリというものである*1。自分のインフラ整備を忘れて、そういう「そぶり」ばかり最初に身につけてしまった権威主義な学究者様には、特に世間が期待することはないのである。巷のおたく&おたく崩れと同様に、趣味と生活をまっとうすればいいのである。権威主義が実のある生産性を求めたら、それはロクなことにならんのは、過去の歴史で武士達が示しておることだしねぇ*2
そーいや孔子は生涯、自分の高い思想を持って仕えるに値する「主人」についぞ出会わなかった。「天命」はおりず、「実力」を発揮する場は見付けられなかった。だから、孔子の教えは形而上に留まりつづけるのかな?(苦笑)

*1:自らの論文に価値があると商売に乗りだすも、いかんせん視点が単一なオレ様居丈高に排他的で、世間への有益性を平易に具体的に現すこと(=臨機応変なサービス&収支アカウンタビリティ)ができなくて、掲げる大フロシキの割にはタコ壷状態を脱することができず失速する「武士の商法」>NAM等の文学共同組合、学術理念目的な市民運動体、各種奨励金の消費機関なプレベン事業、論文=パテント売買に終わるベンチャー
更にいただけないのは、最初の大フロシキ通りの「成果」が計画通り出ていないのにも関らず、そのプロセス検証はきわめてズサンもしくは自己に都合よく解釈されて自己肯定化するオレ様態度は、掲げる学問見地「学究」姿勢からしても不誠実きわなりない、と小一時間。。。

*2:なんであれ結果責任を追わないトコに投資をするのは限りなくリスキーである。