「A」のタコ壺

前にカキコしたid:hizzz:20040424けど、「AならばB」の無理さは、図解すれば、こういうことである。
その「A」という前提で「B」=「三角形」にもってくる為にアクロバチックな奮闘をしているんだけど、ちょっと視点をズラすと、「三角形」となる美しい論理だか倫理は、瓦解する。瓦解させない為には、ひたすら成立する1点に篭り、そこの立場での整合性の精緻(各辺と辺の繋がり)にやっきになってても、その立場に居ない人には、少しも「三角形」に見えないんである。だから、「A」であることは、自明ではない。自明ではないから「必要は発明の母」と家康話をカキコしたid:hizzz:20050510ように、政治権力の正当性を現すのはいろんなシカケが必要なのである。それは、現代でも同じ。
史観論争もウヨサヨ論争も、そもそも違う(自分にとって都合のいい)素材を使って「三角形」に見立ててて、オレんトコの「三角形」=「AならばB」論こそが、「正義」で「正統」で「普遍」だ!合戦なんだよね。しかし、「正義」で「正統」で「普遍」な論理だか倫理だかが必ずあって、成立するとしても、そう言い立てるのなら、ドコから見ても「三角形」に見えないとダメぢゃんって、ワタクシ思うのだか。ただ、上の図解で見たとおり、それは「在りえない」。と、すると、その「A」地点な立場に皆が共有できうるかってハナシになるが、それも「在りえない」。となると、「A」地点認定闘争(=政治闘争)か、「A」地点簒奪闘争(=派閥抗争)になるのは必然か。
だかしかし、それを「在りえる」として自分の「A」地点=「三角形」をこさえるのは、思想信条・信仰の自由=〈私〉である。自由であるが、それはいくら精緻なものであってもファンタジー=〈個〉止まりであり、他者に価値を押付ける「正義」「正統」「普遍」=〈公〉の権威政治であってはならない。だからタコ壷の中身=〈私〉〈個〉な「文学」論理なんか、門外漢は知らないし「知れ!」と押付けられることこそに不快感を持ち、反発するんぢゃないかな。それなのに、いつも同じトコからしかハナシがない。実はソレってちょっと視点をずらすとその美しいカタチが、いとも簡単に瓦解するから、自分が成立するエリア=タコ壷のミクロなゴリゴリ循環論争にもってくより他がナイってマッチョすぎて、ちょっとあまりにも哀しすぎるぢゃん。「A」なタコ壷がそのひとにとっての現実感で、それ以外は非現実っていわてれもなぁ。それでも、いや「A」の可能性に期待してるんだっても、その可能性を明確に第三者に提示できないのであれば、「信じる者は救われる」という信念信仰でしかないから。だから内部でも党派抗争が耐えないなんだろうな。無論それは在っていいだろうけど、信仰の中身は個々のもので、万人が共有するもんぢゃない。
それなのに「A」という固定点1点透視で物事を判断するイデオロギー重視な政治行動は、コンフリクトしか生まないのではないか?現に、コンフリクトがコンフリクトを呼んで少しも解決=論理の帰結してないではないか、アタマ硬すぎと、ゆーてるのである。
なんて素敵にジャパネスクid:hizzz:20050222の最後での「「歴史」のリアリティだけは欠如したまま最も精緻な「近代」の模造を実現しておきながら、いつまでも「近代」に失敗し続けている」モダンというのは、〈イデオロギー〉という方法論そのものに当てはまるのではないだろうか。前回の最後にはエリアーデを引いたとおり、「主張」をいいたてる=批判対象者を排除することダケで政治行動を終わりにしてるのは、自己PCという信仰以外に何の目的を達成しているのか皆目わからない。コンフリクトがコンフリクトを呼んだ結果事実として露になっているのは、イデオロギー〉そこに万人は居られないということである。