歴史の歯車

今では、儒教朱子学も水戸学(国学)も過去の遺物扱いで結果的には同格なのであるが、「尊王蔑覇」は江戸時代の民主(=武士)主義と言えなくもない。徳川光圀のいう「皇統を正閏し人臣を是非し輯めて一家の言となす」倫理の持つ根本的なこうした骨組みは、現代でも続いている。ただ、時代変遷や環境でその「皇」=マクロとか「人臣」=ミクロに当てはめる者が違ってたりする。
朱子学を権威とした江戸幕府は、自らのトホホな下克上来歴を皇統化に接続する為であるとして、それでは朱子学の方ではそれに加担する理由があったんぢゃなかろうか?
日本に帰化して光圀の師匠となった、朱舜水。だからナンで中華/天下の国から野蛮な「東夷」に来るんだといえば、仕官してた明が滅んだからだが、これまた日本が関係している。秀吉の朝鮮征伐では明も又、疲弊して、異民族の清(女真族満州民族)の支配となった。誇り高き漢民族=正統たる高官の出自たる才ある自分をもってしても明の勢力再興ならじ、清皇帝に迫害されるどころか請われてたようなんだが、海を渡って亡命。しかし、ハタからみれば舜水の理想とする中華/天下は、結局漢民族=明への自明執着でしかなかったとも言える。
そこいらへんのロマンと屈辱の荒波が、彼の思想を独特なものにし、抽象普遍的な「天下」よりも「国家」=民族に傾倒することになる萌芽は、最初から舜水自身にあったんだろうな。そしてそれが、なにがなんでも皇統歴史を編纂しなきゃなんない水戸側の事情(紀州尾張に比べ格段に差をつけられる御三家争い)とベストフィットしまくって華開いた。無論それは舜水の本望=中華/天下ではないところ。
歴史はかようにして、幾く筋もの事実の断片を寄せ集めて作られるものだが、その解釈〈史観〉によってはいかようにも変化する。その変化を固定させようとするのが、政治思想だったりするんだよなぁ。