9.サイケデリック・トランス

ところで、UTSについて論じていたhizzzさんの書き込みの中で、<反/脱/非>という余計な図式が出ていましたが、それは元々自分がUTSを読む際に勝手にでっちあげ、hizzzさんに伝えたものデス。こんなテキトーな図式に頼るから、UTSと、社会の最先端について強迫的に語ろうとする<現状分析論>的な社会学的思考との混同が生じるのだ、ということになるのでしょうが、自分としては本来、上に示したような、ジャパン・ローカルな閉塞感とスピ志向との間のカップリングを捉えるためにこそ、そのような図式に頼ろうとしたわけデス。そもそも日本では、文化的・政治的にエッジの効いたラジカルな抵抗の姿勢を取ろうとする運動には継続性や蓄積がなく、その都度海外の、特にユーロの新しい動向が断片的に真新しい流行・意匠として移入してくるだけでした。欧米では、カウンター・カルチャー的な<反>やポスト・モダニズム的な<脱>、さらには90年代のオルタ・カルチャー的な<非>(即物的な快楽主義)のスタンスは、一応区別されつつも、抵抗をめぐる共通の土壌の上に互いに重層的・論争的に絡み合っていますが(ちょっと理想化し過ぎか?)、日本ではそのような背景が見えないまま、新しいスタンスは、前のスタンスの行き詰まりを突破し、完全にそれに取って変わるべきものとして入ってきてしまいマス。自分としては、このショボイ過程にこそ、くだんの閉塞感とスピ志向の絡み合いが深く関わっていると思えてならないのですが…。詳しくは展開できませんが、簡単にまとめてしまうと、まず<反>のスタンスの行き詰まりを打破するためにスピ的なものを求めるという動きが生じ(70年代中頃から80年代前半にかけてのアメリカ西海岸文化の移入)、そのあまりの蒙昧性(いわゆる「ニューサイエンス」的なもの)に腹を立てた者たちが、ポストモダン的な<脱>のスタンスを積極的に牽引し、さらに、その<脱>のスタンスの相対主義が袋小路に陥ると、今度はそれに業を煮やした一部の者たちがスピ的なもの(≒オカルト的なもの)に傾斜し始め、いわば相対主義を極限化させるかたちでベタに全てのものの「終末を」期待してしまい、そして、それを体現したオウムの破壊性にヒイてしまった者たちが、もっとまったりと快楽を肯定していいんだと、レイヴ・カルチャーなどに依拠しながら<非>のスタンスを初めて持ち上げるようになった(90年代中頃)。そして現在、この<非>のスタンスの行き詰まりが徐々に顕在化しつつあるのではないでしょうか(今や一種の不死身のサイボーグと化した窪塚洋介の露骨なスピ化が、その行き詰まりを打破しようとする動きの嚆矢となるかはまだよくわかりませんが)。自分があくまで日本の文脈でサイケデリック・トランスにこだわるのは、まさにそれが日本に快楽主義的な<非>のスタンスを初めて伝えた媒体の一つであったと同時に、最初からあからさまなスピ志向を持っていたからデス。この特異性こそ、ラジカルな批評性のよりどころにすることができるのではないでしょうか(って殆ど意味不明か…)。ラジカリズム追求の行き詰まりを打破するために、代償的にスピ的なものを召還するのを肯定しつつも、それが蒙昧性に陥る手前で醒めた意識を維持し続けること――UTSに出てきた「クリティカル・トリップ」という概念は、このような危ういスタンスを解明するために役立つのではと、勝手に自分は判断していたのですが…。こういう意識のもとで、上に見たような、68年以降の日本のラジカリズム志向の<反/脱/非>というショボい分断の歴史をベンヤミン的に追想しつつ、「日本という悪場所」にラジカルな姿勢を何とか根付かせるための手がかりを追い求め、また、<非>というスタンスが行き詰まりからスピ志向を強める際に生じるだろう新たな危険に(処方されたクスリでインスタントに快を得ることでかろうじて安定を得ていた現在の「メンヘル系」の人々が、近い将来、そのことに不信を抱いて、大挙して新たにスピ的なものを追求し始めないとも限りません)、クリティカルに対応する仕方を模索していくことがとても大切だと、自分としては思っているのですが…。


上記に対する意見は、また、次回。。。