8.再現性の問題

しかしこのような、不毛意識や閉塞感と、代償的に召還されるスピ的なものの間のカップリングこそ、68年以降の日本というローカルな空間でラジカリズムを希求する際の躓きの石、あるいはそれを歪めてしまう歴史的制約なのではないでしょうか。それゆえ自分としては、「社会はこうなったら、きっと生きやすいだろうね」ということを考えようとする<原理論>をローカルな制約の中できちんと展開していくためにも、このカップリング化という現象に敢えてこだわる必要があると考えていマス。またそのためにこそ、あらかじめ特定のイデオロギーを前提として、それによって人々を動員することしかしない、ただの<段階論>と<原理論>とを比較して、その異同をはっきりとさせていく必要もあると思ってもいマス。<原理論>がローカルな文脈を考慮し始めると、地理的・時代的制約をただの偶然的で外的な特殊性と見なして、それを既成の一般的なイデオロギーに当てはめることしかしない<段階論>的思考を超えるかたちで、制約のうちに或る特異な問いかけを見出し、それを仕上げていくことで他の場所でも役立つ普遍性を目指す、一個の<歴史哲学>へと鍛え上げられていくのではないでしょうか。
そしてそれはまた、何らかの状態を回復されるべき理想的な<起源>として想定し、その再現を今ここで単純に求めるような復古主義的態度とは、はっきりと区別されたものになると思いマス。そういう<起源>の実現を求めた運動の挫折・敗北の経験を踏まえて、いったん、その種の<起源>を設定せざるを得なかった意図や必然性にまで遡りつつ、それらと挫折・敗北の経験を改めて関連づけるかたちで、挫折や敗北によって汚され粉々にされてしまった<起源>の断片を自由に組み替えつつ、今までに一度も実現したことがなかった<根源>を未来の目標へと投企していく、という振舞いになるでしょう。これは、<起源>の想起による単純な反復=再現とははっきりと区別された、ベンヤミンが唱える、挫折を契機とした<根源>の追想による未来への投企としての反復になるわけですが、日本でベンヤミンを読む場合、ただ単に内在的なテクスト解釈に徹して、解釈の正当性を競うだけではなく、同時に、ラジカリズムの運動の挫折や敗北をめぐってなされてきた、その受容史を同時に踏まえていく必要があると自分としては考えていマス。なぜなら日本のベンヤミン受容は、まさに常に、閉塞感とスピ志向とがカップリングするところで、つまり、ラジカル左翼の運動(の挫折)とスピリチュアルなものへの志向と、オタク的なものの出発とが交差する点で、もしくはそれらのものの間のはざ間でなされてきたと言えるのですから。この特異性を踏まえない限り、と言うよりこの特異性そのものを同時に追想の対象としていかない限り、ベンヤミンのテクストをいくら厳密に読解しても、余り意味はないと思えマス。