「傷つく」ひとびと

前回では、(政治的)運動に於ける死屍累々をカキコした。「運動」というかなり特殊な例であるので、それに関わっていないひとは、このうっとーしージミなハナシに「関係ない」のかといえば、そうでもない。
リアル日常で、なんだか人の目(評価)が気になり、その評価されるであろう自分と評価されたい自分の落差にとまどい、じわじわと敗北感に浸食されて無気力になっていることは、ないであろうか。いわゆる負け犬、ダメである。そして、それがどんどん続く。
過去にひどくいじめにあったとか虐待されたというトラウマ物語、なにかガツンとした明確な衝突/挫折体験がないまま、いつしかそうなっていったというひとは、実は結構いるのではないか。そうしたひとたちは、いまのこの自分のダメ感を現したいが、なによりも自分自身がトラウマとなっている故、抽象化する言葉をもたない。茫漠として辛い。けど、なんでそうなったのか原因はよくわからない。そうすると、現在も続く唯一の感覚、他者評価と自己評価の落差、そこにポイントをもってこざるを得ない。自分に共感しない者に逐一ひりひりと「傷つく」こと、「アタシが悪いのではなく、傷つけた他者が悪い」と解釈する。悪者という明確な具体的対象が出来ることで、やっと自己と自己をむしばむ現象を切り離す。そうして自己回復を図る。
さて、しかし、この方法論にはすごい矛盾がある。自己回復の為に他者が必要なのであるが、その者は自己をさらに傷つけることとなるのである。