オープンな理想論

「理想」を掲げる側では、いくらこ難しい理論をこねくりまわして風呂敷を広げたところで、こうした「死屍累々」状況にほうかむりをして無責任なその場の癒し強調で個人の日常の芽を積み、結果的に視野狭窄になることでしか続かないような運用(囲い込み)を志向するならば、大抵のひとには でしかない。*1
今一番必要なのは、そうした「理想」の折り畳み方である。そうして身軽になって初めて自由自在にトランスを楽しめるというもの。なのにアレコレぶっこんで身重にして、どーするよ?「理想」論で自己を語るというやり方にちゃんとメスをいれないと、どんな理論をもってきたとて肥大してくばかりだとおもう。
「理想」の可能性を語ると同時に、有効範囲を限定する(他者性)ことと、トラブルや考慮される危険性(社会性)について明かにすることが、具体的に普遍的全体像=社会を表現することともなり、それが個人が浸食されずに程よい距離を保ちつつ「理想」を健全に育むことにも繋がるのではないだろうか。

*1:指導的立場にある表現のプロとするならば、後で、内容的にダブルスタンダードとも解釈できる、「関係ない」読者に内部事情等をエクスキューズを色々展開する位なら、予め本論にチキンと折り込んで書いておいてしかるべきであろう。>北田本、上野本