解脱=理想の折り畳み方

さて、そうした時、ふみあしさんは、その〈個〉がカバーする筈の〈私〉的自己は脆弱性・不安定性なものであり、なにか別のものでささえないといけないと提起されている。id:hizzz:20050802#p2 
all or nothing でカキコしたように、世の中は放っといても、そうした「理想」論にみちみちているし、次から次に「新しい」「真実」とする理想やセミナーが、とっかえひっかえ喧伝されている。「なにか別のもの」という外部的なものを求めるやり方は、「自分探し」とまた同じ穴のムジナと成りはしないだろうか?
また、ひとつのイベで様々なものの原理/真理を求めるやり方は、all or nothing を加速することに容易に結びつきやすい。レイブトランスによる高揚感に表現しがたいスピリチュアル体感をもって単なる快楽ではない原理/真理の 集団獲得を目指すという手法は、そもそも難解すぎて理解者が限られるのに加え、錯覚や夢想とどう違うのか到底第三者検証が出来ないので、それを論拠だてる為にご都合主義に解釈されたスピ理論の付け入るスキを与えるし、第三者の入る余地のない「空気の理論」なソレを過大評価するのは、全体主義を容易に招聘する危険性の方が大きいような気がする。*1
さて、こうしたmyヨタに多少でも妥当性があるならば、実は、理想=自己という現在のあり方自体を自分で壊して初めて、やっと等身大の自己と向き合えるのではないだろうか。なんだかそこを避けていても答えはないようにも想える。「脆弱性・不安定性」だから、足りないトコを補強して備えるのではなく*2脆弱で不安定な部分は負ではなく、自分の中のグレーゾーンゆえ可変部分が多い=外部接続への選択肢が多いという解釈もできるんではないか?
『アーバン・トライバル・スタディーズ―パーティ、クラブ文化の社会学』を使って積み上げる原理論は、思想限界値の実践としてはいーかもしれないけど、アクロバットな思想マニア向けって感じなんで、もそっと万人向けには、勉強したり修行したりするんぢゃあなくて、いま持ってるもので簡単に出来やすいこと「負(とおもいこんでる部分)の読み替え」、これシンプル故に実行適用性や外部検証性*3、なくない?

*1:個人的体感でそうしたものを獲得し、検証確認する安全な方法としては、スポーツや音楽やダンスを含めた各種芸事がある。そうしたコトを見て聞くダケでは、ベンヤミンを読むのと同じで、ヤルことを身体化できない。無論それが「集団」同調になると、体育会系という全体シバキ主義に直行するのは山のような例がある通り。

*2:だってそれぢゃあ、強い自己が理想っていう以前と同じことだしね

*3:読み替えすぎて誇大自己になってないか