理想/原理の使い方

「理想」は、ひとつの表現物=作品でしかない。そのカタチを愛でてても、いつまでたっても自己はおろか思想的自己も生成されない。その関係では、ソレは作者のものであり続けるからだ。ワタクシが考えるに、信仰以外の生き方としてそうした「理想」とは、ソレを理解しつつも懐疑を持つ(介入する)ことではじめて自己の考えが生成していく際の「通過儀礼」なのではないか。鎧にしたソレの中で生きる〈私〉的共依存でなく、ソレを自分に活かすとは、ひょっとしてそういうことでないかと、想う。
本を閉じ、映画館を出て、音楽は途切れて、イベは終わらせて、ネットを切断し、学校を出て、仕事を終わらせて、仲間共同体と別れて、自分固有の日常に戻って初めて、「理想」からも自由な自分と「理想」を活かす新しい場=発想が出来るのではないだろうか。トランスというのが自己思考に有効になるには、様々な理想を横滑りショッピングするということではなくて、そうした様々な社会フェイズのどこにいても OK!ってことであると想う。その采配(分割統治する自己)は、外部の理想論(=集団/共同体)=〈公〉にあるのではなく〈個〉=他者に相対する自己表現にあることが、同調圧力の強い社会、世間=人の目の自己内面化を食い止め払拭する手立と、前回仮定した。
また、そうした思想の負の面を「ない」とする、もしくは負をゼロにしてく対策してるから万全だとする思想側のやり方は、人間不信をまねくだけである。具体例をあげれば「原発は安全管理されてるから、危険はない(だから事故対策を考える必要ない)」という、どこぞの機関がよくやる言葉ダケ積み重ねたペーパーの中ダケの整合性にすぎないのと、同一発想方法だからだ。