all or nothing

「理想」=輝かしい「正しい」自己という「超越思想」に執着すると、そぐわない不都合なこと、グレーゾーンなことを次々切り捨て、「理想」との整合性を保とうとする。all or nothing であることに、壮快感さえ感じているひとが多いのではないだろうか。まあ、なんであれ気持ちよければそれでいーのかもしれない。
が、逆に現実との不整合は拡大し、結果、現実からうきあがりっぱなしで立場を狭くしてるひとを、多く見かける。これが、(運動系も含めた)「死屍累々」に陥る理想の膨大な風景だ。だが、「理想」を語るひとほど、輝く頭上しかみない。なんだか変。
ま、そこまで極端でなくとも、all or nothing というのなら、そんな浮き足立って肥大した「理想」=自己への執着は、理想たりえたとしても、果たして自己たりうるのか?そうした時、自己は何処にあるのか?という吟味/考察/検証がそこでなされないとおかしい。…そうすると、大抵、「理想」で自己が塞がれている状態であることが殆どではないだろうか。「理想」と現実を繋げようとする自己が塞がれているからこそ、「理想」が現実に繋がらず、結果、浮き上がって立場がない、とか。
なんであれ決断は、リスクを伴う。だからこそひとは、外部に絶対的な正しさを求める。all or nothing は、「絶対絶命」という状況判断=自己(視野)の正しさへの信仰を、自他に強要してしまう。そうしてしまうからこそ、オルタがなく、内部=自己が肯定される。が、しかし、その内部空間は、そうしたall or nothing を繰り返す内にだんだん空間がせばまってくる。そうして自己からnothingしてきたものは、なんだったのか?いや、そもそもそういう思考方法は、はたして妥当なのであろうか?なぜ、自分は all or nothing しか選択肢がないのか?そしてどっちも選びがたいことになってるのか?
…だったら、なるべくそういう選択肢が限定される状況に自分を追い込まないことが、肝心なのではないだろうか。