コミュニケーション弱者

以前、還る場所id:hizzz:20031027 でカキコしたのだが、80年代サブカルは、乗り越えることをあきらめて別の自分たちの世界をこさえて分散化/多様性ということで乗り越えたこと=ポストモダンにしたんだけど、結局、近代以前のソレは歴然として未解決のままにある。それが、前回のカキコしたとおり「自己承認欲求」な主体の確立問題というベタな青春。
最近ではそれが「非モテ=コミュニケーション弱者を差別するのか」という風な「正論PC(political correctness)」書込がネット上でなされて、ワタクシはおもわず『週刊金曜日』か?と爆笑してしまう始末。その『週刊金曜日』は、かっての左翼学生の愛読雑誌『朝日ジャーナル』が、サヨク化筑紫サブカル放蕩して消えてったのの流れを汲んでか汲まないでかで、発刊。
前回もカキコしたように、そもそも恋愛自体が差別的行動であるから、自己を「弱者」という絶対的政治地位に見立てるのであるならば、「自他共に、すべての求愛行動を断固拒否する」という帰結ならば、「コミュニケーション弱者」という自己問題提起は解消されうる。他者も、「コミュニケーション弱者として差別はしてない故に、一個人として恋愛関係結ぶ気がしない」ときっぱりと断りを入れることが出来る。
ところが、このPCを言い立てる者は「弱者」という集団マスに拠る「自己承認」という所に最も重きを置いてしまうから、とりあえず「非モテ」というよるべない現状をそれで回避したとしても、自己保守的なアイデンティティ集団行動をとっているかぎり、相思相愛という恋愛成就は永遠にかなわないことになる。
また、仮にその「弱者」主張を受入れた者がいたとしても、対等でない逆抑圧を強く感じることとなる。