非モテの私さがし

自己が常に実現されてないと、日々感じている者だからこそ「(自分がリスペクトしない)バカ(=F1層女子)に差別されて、ツラい」という現象が身にしみる*1。または「純愛/純潔」に飛び付く。
自分がリスペクトしないバカなんかに恋愛感情はそもそも湧かないのが普通であろう。なのにこの人々は、それがF1層=最も人気ある=モテる者である故に、自分もつきあう「権利」を行使して初めて、自己実現が成るという思考なのであろう*2。「愛してさえくれれば、愛することが出来る」と言う条件付、そゆあくまでも自己に拘る愛を、愛の最優先にする行為を、自己愛という。
こゆ者のいう「愛」とは、相思相愛とは遠い「憧憬」と「愛玩」の組合わせ。前に上げた「非モテ=コミュニケーション弱者を差別するのか」という大風呂敷も、要は「弱者だから、ひたすら愛玩してくれ」という要求である。ま、したから「アタシ、あんたのママぢゃない」と言われておしまいなのである。
「愛」自体の設定がズレているのである。前回の「話しを聞く」という忠告も、そもそも自己同一志向者以外の同性異性とりまぜた他者異者との話しを聞く関係=友人/知人関係を構築出来ない者が、それをすっとばして人間の一番コアな恋愛関係に急性になって「おいしいトコどり」をしようとするのに、かぎりなく無理があるのだ。

*1:非モテでコジレる要因には、「不幸の先取り」という特有行動がありはしないか。なぜそんなことになるのかといえば、現状を自己肯定しようとするあまり、将来変化するかもしれない自己と自己をとりまく環境の可能性を、不安要因として全てオミットしてしまうからだろう。

*2:セクシュアリティの一致は、恋愛において一番重要なことであるのにも関らず、それでもどーしても関係を持ちたいというのなら、恋愛以外の方法を全力で構築してくよりほかはない。そして実はそれは相思相愛なはかないものより、はるかに自己自由度が高くラクだったりするのである。