悪しき〈母〉

さてさて、それではどうしてこういう無理に無理を重ねたフレームを選び、クローズアップさせたそれを正当化させなければ、存在基盤がもたないのか=方法論的動機ということが、このハナシの最大の核心である。で、果たして、でて参りましたよ、奥さん。


僕の母親は子供を自己の延長・分身として支配しようとするタイプの人間で、僕が自立するような動きをすべて封殺し続けた。…そのような母子関係を最初に与えられた結果、どういうわけか僕には成長してからも母親に似たヒステリー性の支配的な女性にばかり狙われる・あるいはひかれるようになってしまい、まともな意味での恋愛関係をまったく構築できない人間になっていたのだった。


やっといえた親の悪口という、伝家の宝刀id:hizzz:20031027#p5。ベタ中のベタ。主体の未獲得問題。
自意識が排除されたからこそ「自由と高慢」を独占してる〈少女〉獲得願望に彩られた〈男〉意識が、今むしろ拡大してると考える高原英理は、産む性である〈母〉の対極にある〈少年〉に価値あるものを見いだすのは、「悪しき〈母〉」というのを意識してる者でないと無理であると、『無垢の力―「少年」表象文学論』で述べる。本田が問題とする「恋愛資本主義」とは、高原のいう「自由と高慢の独占」とほぼ同一の志向であろう。他者の原型としての母=他性=〈女〉と自己の関係方法論としての「(母子)恋愛」ということがもっとも核心となれば、このハナシは「恋愛資本主義」も「バブル」もまったく関係ない、それは典型的な事後的後づけ論にすぎない。*1
著者の考える「萌える男」とは、「(恋愛)資本主義」を否定するどころか、90年代に流行った「トラウマと癒し」を利用したアタシさがしの自己実現を絶対唯一の正統としたい者のことか。「自由と高慢の独占」という欲望そのものを手つかずで温存する為に、いかなる現象をもトライブして利用しようというハナシだからだ。なのに、「トラウマと癒し」部分が拡大してその罠にハマった。そもそも欲望行為(自己承認欲求)と自他関係行為は別視点の行為なのだが、自己の〈女〉という記号で現される欲望成就のカタチを、「恋愛」という絶対神聖行為論に読み替えて唯一の自己正統化手段にしてしまったことが、コジレる原因である。ま、しかしその「トラウマと癒し」つー物語、個人消費を主眼とした後期資本主義的な支配&抑圧論なんだけど、なんでソコにはかくもこんなにウブなんであろう????

*1:手塚治虫『ブッタ』を引いて「萌えとは自己救済」とした最終項目で、「他者に救いを求めるよりも、自分で自分を救うという行為のほうが、よほど男らしい、というよりも、潔いよいのではないだろうか」「萌える男とは自分自身の内側に「神」を発見する能力を持った人間」という価値観が表現されている。で、あるならば、これは近代が推し進めてきた「〈男〉という課題」への強化(家父長文化)そのものであろう。