フレームワークの欲望

そんな大フロシキを掲げてまでも正論を寄せ集めてこないと、とにかくの自己確立=母親バナレ出来ないって、、、それは確かに大変だー。こゆワキ固めしないと、本題にもせまれなかったということか。しかし、そんなに親=他者存在を、強大にしてしまうその脆弱で不安定な意識=自信のなさは、一体なんなんだろう????他も含めてこの手合いのハナシでは、どうしてソコの点は、いつもいつも回避されるのであろうか。てゆーか、むしろソコを見なかったコト、なかったコトと全身全力で回避する為に「議論」を使って、そのアクロバットを、「思想」と結び付ける営みが、建設的で明るい未来を保証するというのであろうか?id:hizzz:20050629#p3

前回とりあげたプロスペクト理論id:hizzz:20051205#p2で「萌える男」を見るならば、利益よりも損失を重視する「損失回避傾向」意思決定を重ねており、それを一気にひっくり返そうとして自己正統化のメタ拡大解釈をもってきて全てを保全しようとすると、人生でのうまくいかない感は「トラウマと癒し」な小さな物語か、宗教&イデオロギーという大きい物語で購うという方法が、結局、為にする論議の循環に陥るのは、何故か?*1

したから性別関係なくハタから「モテVS非モテ」について多視点の傍証をいくら重ねても、相互関係より絶対秩序(立ち位置)確保が主眼なので、齟齬はつきない。しかし、その齟齬こそが「(愛されたいのに)愛されないアタシ」という喪失した存在=トラウマ物語を継続する唯一の自己正統化手段だとしたら、一種の反復脅迫である。ニーチェの超人思想に依るキリスト教批判は、まま超人思想そのものへの自己言及に他ならない。ひたすらな反発しか手立てがない、客観性放棄して意味より強度な全体主義は、ラクになるどころか、自分が見えてないダケの死屍累々への道=典型的ドクマティズムである。

しかし、よくよく考えてみれば、元々獲得してもないもの(=モテだの恋愛だの)を喪失したも回復するもない。過去も現在も近いも遠い将来も、とにもかくにも現前しない価値(理想)の贈与に対する、執着。この『萌える男』も、セックス・コンシャスに依るアニメ趣味者の生身他性への他者感覚と性的関係性という現象フレームだけ過剰拡大し、それが言論ゲーム上で煽り煽られ、結果バブリーにふくれあがったのに過ぎないのだが、いかんせん、しょぼいへろへろな生身の〈私〉は、脳内妄想で払えども払えども張り付いてくる。だから、そんな生身をさらけ出す必要のない脆弱な〈私〉を包み込んでおおいかくしてくれるより強力で完璧で絶対正統な安全理想説/物語はなんかないか…>id:hizzz:20050804#p6 この運動は反服脅迫である。そして人間はなによりも慣性の動物であるから、いつのまにかその方法論をすること事態が目的化して、ワレ想う、故、ワレ萌ゆる。思考するアタシという抽象概念的「退却」をもってして、都合の悪い自己実態をオミットして、全てを恣意的に着脱する能力を獲得する。非モテ論者が固執する「自己は外見よりも中身重視」説というのもこの退却ラインの一環なのであろう。萌えるか萌えないか、所有付与権をコントロールするアタシをもって自己確認とする。が、なによりもそれは閉じた方法論ゆえ、継続するには(贈与された)内的リサイクルな反芻だけではことたりず、外部注入が必要となる時点で、一方的に切り取った外部=他者の消費方法=独占要求で、外部=資本との主体覇権争いが起こる。

…だったら、足してもダメなら、引いてみな。どーせなら、コンフリクトを生むわ苦しくなるわの方向しかないこんなに息苦しい自己正統化欲望なんぞソコソコにして、むしろソレをうまく飼いならす方法で、脳内萌を使うことにしましょー。幻想の過去を取り戻すという「トラウマと癒し」からの解脱をこそを考えないか。
萌え(マスターベーション)を元のたあいもないセックス・コンシャスの一つとして自他の区別をつけて安全に楽しむ為なら、感性を拡大させまくるばかりの自己幻想をも見切る「自分失し」という方法論id:hizzz:20040612#p1は、その次の段階としてアイデンティティを分散消化して身軽になれる理性的なひとつの手かも、、、しれない。とにもかくにも、自分さがしは、程々に。

*1:それを「思索」と呼ぼうが「分析」と呼ぼうが「批評」と呼ぼうが「思想」と呼ぼうが「真理」と呼ぼうが、多角度的に実証検証することのない説は、暫定解のフィクション=幻想物語でしかないである。どんなフレームワークを創造したとて、そゆフレームを超えることは出来ない。