セクシュアルライツのデリカシー

オタク的(作品)生産・消費で存在が膨らみ、隔離し/された中で「テーマパーク権力」(環境管理型権力@東浩紀)としてまわりだす虚構世界(ポストモダン)と実社会との乖離を、その虚構世界は決して現実とは敵対も超越もしない「ごっこ遊び」として、本田透をフォロー?しつつアーレント型「公共性」=お約束をつかって着地させようとした説がある。

1つの同じキャラクターをめぐって、たくさんの鑑賞者の思いや妄想が交錯するその中で、人々の想像によって構築されたにすぎない、実在しない虚構のキャラクターがにもかかわらずどの特定の個人の思惑にも欲望にも左右されない、見かけ上の自立性を、そして見かけ上の不透明性、深み、屈折、わかりにくさを獲得する可能性はないでしょういか?そのとき、そのキャラクターをめぐるファンたちの共同性とは、いったいどのようなものとなるのでしょうか?おそらくは、幸か不幸か「脳内恋愛」に始終していられる局面は終わりを告げ、思いがけない出会いの幸福やストレスに開かれた「公共性」のようなものが育ちはじめると思われます。

稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

「脳内」セックスコンシャス趣味のオタクを話題にしながら、男女を分けて考えるというのが時代の不文律な「お約束」というものであろうか。なんかドコかバランスがおかしい気がするんだけど。稲葉本では、脳内恋愛構想を擁護しつつも「オタクが「恋愛資本主義に傷ついた男」だけで尽くされるはずはありません。「やおい」「腐女子」はとうなるのでしょう?」という一文をもってのみ、やおい腐女子属性に触れているが、それがどーなってるかは記述されない。
その「公共性」を当初からハゲしく意識し「掟」としてる実践者が、やおい腐女子性自認な同人なんではないかと考える。

腐女子自身が自分の趣味を、周囲から顔を顰められる類のキワモノ趣味であると理解しているからです。 「こんな妄想を、純粋なファン、ましてや作者、本人に知られたらどれだけ嫌な思いをするだろう…ごめんね、801にしてごめんね。」

萌えプレ 隠れ腐女子が増えてゆく
http://blog.livedoor.jp/moepre/archives/50082125.html

稲葉本は、貴戸理恵『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』を例にとりそこでの「不登校」をサバルタンとし、リアリティの最深部は当事者自身で対象化して語れる時は、当事者でなくなった時という語りの不可能性について、以下のように述べる。

もって回った言い方ですが「少なくとも互いに『互いにわかり合えない』ということはわかり合えていなければ、そもそも『わかり合えた』とか『わかり合えない』とか言うこと自体に意味がない」ということです。サバルタンサバルタンとして現れるためには、そもそもの「語りえなさ」がそれとして認められ、その限りではーつまりそれは「語りえない」ということは理解されなければならない。

稲葉振一郎『モダンのクールダウン』

オタク女性の隠す部分というのが、いつも問題視されているのであるが、それではオタク男性はあますところなく語られてるといえるのであろうか?データベースとしての萌えカタログがどんどこ増えていこうとも、その「脳内」の影にかくれてみないようにされている、サバルタンとしての男オタクのセックス・コンシャスについて、手つかずな部分は実に多い。