批判カテゴリーと批判

上記のカテゴリーは、上野的もしくはJANJAN的にはふまえてて当たり前の語句なのであろうが、ググった中ではニューライト=ネオコンなどと1ジャンルとして別れていなかったりするものがあり、色々な解釈がなされていた。
語句に「ネオ」とついてるのは、現象批判の為に存在する批判派の創作した語句で、主義者肯定者が存在しないということ自体が、いっそう解釈をヤヤコシクしている。なぜなら、原点であるカテゴリー主体者がいないということは、批判主体者はこの語句をどのように使っても正となるからである。仮にここでワタクシがこういう意味かと推察しても、ナタを振り下ろす側ー著者は「いえそういう意味ではありません」といくらでもご都合主義的に後づけ可能なのである。特定しない語句は曖昧なまま放りだされてる文では、どういう意図で使用したかという恣意的文節付与権は自己手中にあるとするからだ。そういう意味で便利だから、カテゴリーは乱用されるんだろうけどね。そのような手法が過ぎると、第三者にはこうしてさっぱりワケワカメなのである。
どうしてか、というと原点が特定できないということは、現実に結びついていないということである。抽象思想や散文や詩なら、いくらでもこうした恣意的文節付与権に依る自由な発想や飛躍を楽しむことはなんの問題もない。だが、ここで主題となっているのは現実なのである。批判したいという姿勢を表すのでなく、現実に根ざした批判をするのでなければ、批判の目的は達成されないであろう。


で、オマエはどー考えてんだとツッコミいれられそーなのでカキコしとくと、拉致問題しか実績ナイぢゃん安倍。色々タカ派ブレーンがよりそってきてる様で騒いでも、魑魅魍魎を采配してく調整能力なき美しい日本のアタシな安倍晋三よりも、「小泉劇場」とおなじく「安倍」がひとつのジャーゴンとして機能するそれを利用する官僚派閥の動向如何*1でわ。実績のなさをそうしたかき集めたイメージでおおった大物感を演出して乗り切ろうとしている安倍を批判するのに、そうした小物*2のイメージを膨らませて大物感に寄与しまくるかのような批判は、結局は政権の補完迎合となるのである。それが、「小泉劇場」の構図だったのではないか。そのマヌケを繰り返してどーするよ(怒)。

*1:例えば、猪瀬直樹が声高に乗り込んだ道路公団民営化の結末。

*2:内紛つづきの「つくる会」「拉致家族会」