アイデンティティ政治

こうして他者に一方的に周縁化される「名指し」行為=意識させられる受け手は、その名指しが意味するところのものを容認する場合と、容認出来ない=抑圧を認識する場合がある。容認出来れば、中心意識に近付くことであろうし、出来ない場合は周縁の彼方「疎外」感となる。こうした時、名指しによるカテゴライズが極端であればある程、中心に向かう/疎外においやられる意識の亀裂は深まる。最初はひとつのアイデンティティを巡る両極だったものが、中心と疎外という軸の二項対立アイデンティティとしてジャンル確立するのである。このような現象を駆け引きに利用することを、アイデンティティ政治(identity politics)という。
アイデンティティの極は最初にカキコしたとおり、オレ様=個人である。アイデンティティ政治のハテにアイデンティティで勝利しよう?とおもったら、当事者オレ様主義の固有アイデンティティを立てるより他ない。が、それは、呼ぶもの=オレ様一方方向の独我論、呼応する他者の居ないタコ壷でしかなく、関係性もなにもあったモンぢゃあナイ。自己差別‐自己疎外へと進むそれは、アイデンティティの檻に閉じ込められることに他ならない。また、その自己疎外の息苦しさから差異の強調・賛美して、排他的攻撃性を強めて、外部関係をこじらすケースは実に多い。
さて「政治」といったら、自民党の派閥争いにみるように、○○族の利益誘導型=商売利権争いの調整というのがこれまでの主流であった。これの調整は分りやすい。Win-Win、五分五分という駆け引きができればよいのである。が、これがアイデンティティの争いとなると、お互いの利益という妥協点を具体的イメージする発想をオミットしてる為、1mmでも譲歩したらアイデンティティが成り立たないとばかりに、とかく all or nothing に吹き上がりやすい。