三位一体

目的(=原理)は手段(=形式)を正統化しないし、手段は目的をなんら正統化しない。けど、それぢゃあ八方塞がりぢゃん。と、いうことで目的=手段=正統化という方法論が模索される。いや、それが、あったんですな。それは、何でもありぃの「アート」の世界。いやしかし、まだアートだけだと、目的(コンセプト)=手段(アートテクスチャ&テクニック)だけ。そこに正統化をどうやってくっつけるかというと、「美学」。政治=美学とする運動とやらが一部左派文化人のあいだでブームとなってたがid:hizzz:20040123、昨今のハヤリでいえば、なんといっても「美しい国」か。ナニをもって「美しい」とするのか安倍晋三ワケワカメ、感性ってことか。「美しい」に厳格な理念はハマらないが故に、それぞれの想像する美しき誤解を封摂しまくったまま、曖昧模糊と鎮座することになりうる。目的=手段=正統化の三位一体は、「〈私〉=アイデンティティ=〈公〉」という理想型を「美しい」という言葉で朦朧と絡める事で、言語表面的には一応なりたつ。
一見、それは良き事のようにもみえるが、問題は、「〈私〉>アイデンティティ>〈公〉」という選択意識で個人がいても、その「美しい」とする中身が、先にカキコしたように曖昧模糊な感性は解釈如何によってはどうにも転ぶ正統性という、あやういものであることだ。ひょっとして、あやういはかない「美しさ」がネライ?したから、教育基本法だの憲法だので「美しさ」を挿入するというのか。明文化された「美しさ」というのは、ダレのドコを起点とした「美しさ」なのであろうか。その〈公〉とされた「美しさ」の影に追いやられる周縁の各々の価値は、どこに棲めばよいのであろうか。そもそも、そんな〈公〉が介入する「美しさ」標準は必要なのであろうか。従来アートは、「美しい」の基準(自己責任)を持ったてんでバラバラな個人が各々の視点から表現されたひとつひとつであるからこそ、それが多様可能性のコヤシとなり、その様々な表現が息づく社会は豊かな地場で膨らむという作用があるだろう。
「美しさ」という美学+感性(ロマン)=「モラル」とする〈公〉のアイデンティティ政治というのは、正統性の解釈権限を〈公〉がにきる、ということである。それは、「〈公〉>アイデンティティ>〈私〉」にいとも簡単になってしまうということである。「モラル」というのは、特定間の慣習がルールとなりモラル化されてる場合が大半で、特定間の慣習=なんらかのひとつのラインの上にしか存続出来えない前提を持つので、とかくコンフリクトが起こりやすい。id:hizzz:20050302