多様性の中の学校

教育は国民の義務だそーだが、それでは教育を授ける権利というのは、保護者/教師/学校/国家、一体全体ダレのものなのであろうか?
かってそうした学校の批判者として有効だったのが学生運動日教組だったのだが、学校以上の硬直化した運動を展開して、結局管理主体の補完構造となって、第三者の不在がさらに強化されていたりする。そして今の高校の単位未履修もそうだが、どうも今は教育支配権を学校=文科省と国=政府とで取り合いしてる有り様。はぁ〜なんだか。ぐったり。
未履修問題で塩崎氏「文科省は信頼失った」
http://www.sankei.co.jp/news/061031/sei011.htm
森元首相に聞く 参院選争点は「日教組壊滅できるか」
http://www.sankei.com/news/061031/sei001.htm
教育基本法改悪阻止に全力を「非常事態宣言」
http://www.jtu-net.or.jp/news/06/10/26n1.html
多様性の世の中なのにもかかわらず、教育取得様式が単一ってことが原因で、いじめも含めて様々なとりこぼれが起こる。が、所詮、4年間ばかりの大学教育の経験値をもって、同一密室空間内で反復を繰り返している教師にその変容する世界を持ち込む生徒の全てに対処しろゼネラリストたれといっても、それは無理難題である。それは教師自身も判っているから、自分の手に負えない問題が発生している事実を認めない。認めたら対処しなければならないからね。それで、認めないまま学校空間を維持しようとするから、そのセカイを抱えこんで抑圧して、結果、他者性社会性を失う。
それならば、不可能だと公言してやれることのみに専念すべきなのだ。教育する中身を限定する。と同時に外部選択肢を常に可視化させ情報公開する。無論、世間も学校にそれ以上期待しない。それでようやっと学校は学問する場所に還ることができるのではないだろうか。