社会的主体〈公〉

教育とは、個人がいかに社会で自律主体となっていくかということであろう。
米国と「一億総懺悔」的共謀共同正犯を利用して主体ハズシを行った戦後日本は、敗戦のトラウマに陥ることなくエコノミカルに国際的プレゼンスを回復した。へたに主体を持つ=出すと四方からハタかれてヤバイという護身で、「欧米列強に追い越せ追い抜け」を引っ込めた後に謳歌してる筈の「自由意志をコントロールする理性的人間」という近代契約主体は、「一億総懺悔」的戦後処理で速攻はずされたのではないだろうか。
自分が能動言動したのにも関わらずそれを空気の理論のセイにしたりする責任主体である都合良い自覚の曖昧さは、いじめの陰湿化に直行する。被害者だけ存在して、あとは曖昧模糊とした状況が朦朧と続く。更に、自己主体を認識しないということは、鏡としての他者主体は認識出来ないということであるから、様々な意識に基づいた言動は全てモノローグと化す。それでは他者性社会性は到底担えず自律できないので、類似モノローグの依らば大樹の影に居場所を見つけるしかない。しかしそれは類似という隣り合う関係の被妙な差異を巡る軋轢がもっともストレスと化すという閉じた円環ループをしばしば繰り返す。
大きな関係である国際間ではエコノミカルなプレゼンスが成功しすぎて、他者各国から日本ナニ考えてんだマネしだキモいブキみと突き上げにあうと同時に、自主性ナキそうした存在方法自体を嘲笑され続ける。しかし笑われても、その大樹が磐石とした根を張って頑丈な内は安泰だったのだ。ところが昨今、その大樹=米国が迷走してぐずぐずになっている。このまま一蓮托生で大丈夫なのか不安が走る。変わりの大樹も見つからない。しかも、さんざんみかじめ料を払いつづけた大樹ときたら、やれ出しゃばるな、やれタダ乗りするんなと、注文が加速する。
「Noという日本」の内実は何か。戦前の「西洋においつけ追い越せ」も「一億総懺悔」ももう無効。したらなにか立ち上げなければならないのだが、肝心の国民は相も変わらず主体ヌキの関係性の連帯で、エコノミックアニマル貯金をぬくぬく2世代消費蕩尽。だがそれでは、そろそろ国家が先細り。しからば、国側でこしらえた「個人というフィクション」を再チャレンジや共謀罪などでしっかりかぶってもらうことで現代的責任主体としての再生が国家につらなる、そゆ文化=政治的にクリアしようとする「美しい国」づくりのモラル=共謀共同政策が、急始動してるってことであろう。>目的=手段=正統化の三位一体id:hizzz:20061005#p3