メディア・ナショナリズム

ネットと旧来メディアとの齟齬はつきなくて、雑誌や民放ワイドショー/ニュースショーの煽りは殊更言うにおよばずなのだが、最近は「皆様の」NHKもカナリあやしい*1。去年12月9日に放映された長時間討論番組『ネット社会【日本の、これから】』http://www.nhk.or.jp/korekara/nk10_ns/index.htmlと大風呂敷を掲げた割には、そのトーンは毎日新聞の当該記事と同一なあまりにも恣意的かつ扇情的な質問やVTRばかり誘導として流されて、番組進行中に出演者多数のブーイングを買う程のお粗末な番組であった。NHKは他に『ワーキングプア*2や『うつになるのは女性が男性の2倍』*3等の構造的な問題から目をそらす、始めに「ワンフレーズ・ポリティクス」ありきとでもいうような番組が製作されるようになった。
なんであれ書かれている意図をそのまま受け取るのではなしに、何故この時期にこの内容で誰によってドコから流されているのかという問いを、基本的リテラシーとして常にアタマのスミにおいて解釈したほうが良い。
媒体効果にシビアになった各社が昨今景気回復の割には広告費を抑え続けた2006年の媒体広告市場な中、TVはDVR普及による一括録画/CM飛ばし、新聞は宅配購読の高齢化&減少化、雑誌はフリーペーパーを含めたニッチ分散に依る売上減少化といずれも既存メディアは、既存根幹ビジネスモデル衰退現象を抱えて危機感をつのらせている。
上記2社の新年特集記事は、新聞購読層から乖離するイマドキの若者(団塊ジュニアという大枠)をなんとかカテゴライズしてメディアとして立脚したいのであろうが、こういうカナリ恣意的な煽りに載せられる「メディア・ジャーナリズム」は、旧来的ナショナリスト、反国家主義につづく戦前からの第三のナショナリズムであり、「民衆の代弁者」という建前を装うそこが、いつも、決定権をにぎってきた。
例えば、修正史観や自虐史観といった政治的左右両派の歴史観の他に、司馬史観が社会の「御意見番」「良識」としてメディアが持ち上げるそれが大衆歴史観として広く流通してきた現象を「メディア・ナショナリズム」と定義した本がある。

第一に、新聞記事やニュース番組の中では、言葉、音声、画像などによって構成される情報によって、出来事の名付けが行われることは重要である。なぜなら、出来事といかなる言葉によって名付けるかということには、一定の価値感に基づく出来事の意味づけや評価という作業が伴うからである。それに関して第二に、そうした価値感を共有することが、国民の間に「我々」という意識を生み出す傾向がある天にも留意する必要がある。… 国民国家のレベルでは、こうした「我々」という意識は、国家に帰属する自分、ないしは国家社会の一員という意識、すなわち国民的アイデンティティを形成する。それと関連して第三に、マスメディアは、国民の帰属意識の対象となる国家に対するアイデンティティ、すなわち人々の国家像や国家イメージの共有化に大きく寄与する。第四に、マスメディアのそうした作用は同時に「我々」とは異なる人々として、「他者=彼ら」を生み出すことになる。

大石 裕、山本 信人 『メディア・ナショナリズムのゆくえ―「日中摩擦」を検証する』

情報社会論では「情報通信技術の発展→メディアと情報の一層の多様化→ナショナリズム意識の低下」という図式によってメディア・ナショナリズムは抑止されることとなるのであるが、そうは桑名の焼きハマグリ。本は、「05年の日中摩擦(反日愛国)」にみる対日報道の煽りを追跡し、国家ナショナリズム市場が必要とした国民ナショナリズム消費の関係を記述する。


無論、踏みはずすのはなにも「ナショナリズム」派やメディアにかぎった現象ではない。「百年前、すでに戦争は娯楽だった」という長山靖生は、日露戦争前夜メディアや知識人達が総主戦論化して熱狂した状況を追った本で、「表現に引きづられた結果ではないか」と以下のように記述する。

決断をしなければならない時、人は迷いを感じる。主戦論よ非戦論の間で迷う自分がいるとして、しかし主張される意見には、自分自身の心のなかの迷いは反映されない。発表された文章と作者の心の間には落差がある。表現するというのは、自己検閲し、ある限定を加えるということでもあるのだ。この場合、その人に検閲を強いるのは、政治的圧力ばかりではない。見栄えの良いイデオロギー、より文学的に優れた表現に引きずられるその人自身の見栄もしくは野心が、検閲をするのだ。しかも範とすべき文例としては、愛国や憂国の情を詠い、七生報国の志を述べた詩文が、広く学校教育の場でも学ばれ、それ以前からの漢籍の伝統のなかにもふんだんに用意されていた。それが「戦争やむなし」の「自発的な声」を誘発する一因だったのではないか。見栄えのする意見を主張し、主張した意見に拘束されて引きずられた者がいたとしたら、「表現」は戦争の原因でもあった。

長山靖生『日露戦争―もうひとつの「物語」』


てなことで、いつもないがしろにされてきた社会的自律主体〈個〉id:hizzz:20061101#p5が未だ獲得されてないもので、戦後民主主義で在ることにした共同幻想「個人というフィクション」id:hizzz:20061022が、失われていったということではないだろうか、ねー。

*1:去年の7月に北朝鮮から「何らかの飛翔体」が続けざまに発射された時の夜7時のニュースでは、横田早紀江のコメント画像を流すサービスぶり。

*2:昨年7月に放映されたがid:hizzz:20060807#p3、経済成長もバブルも関係なく一貫して性別格差が続いている女性や母子家庭という根幹的貧困層を無視しまくった事例に批判殺到し、再度番組制作してこれらをフォローした。

*3:「うつ」という病を通して現代における女性ジェンダーの社会的生きづらさを持ち上げたのだが、1医者が唱えたという学問的実証性が示されない説を基にしたのは、いくらでも反証の余地があり説得力がなく、問題が多い。