憲法とアイデンティティ

ワタクシは前に書いたとおり、左派ならば9条のみどーこーいうより、歴史的観点からも主権在民的観点からも整合性の取れない1〜8条削除しろというのがスジであろうと考えてる。またワタクシは「××しない」という否定系ダケによるアイデンティティ(自己肯定)は行動矛盾に至る危険な方法論であると考える。大体、9条が出来た当時想定していたのは、国家間の総力戦であったが、911以降考えれば、国家vs非国家団体間の紛争のほうがはるかに多発してリアルだ。しかしいくらリアルといっても、「戦争しない」紛争対処法をもってして国民アイデンティファイするというのは、いくらなんでも非日常であるし、まず「戦争」という前提が常態として持つ殺し合いへの対峙、そんなバイオレンス政治を日常としてメインにすえなきゃならない生活なんざ、ゴメンこうむる。大体「戦争する」というのは軍隊が合法化されている国家でさえ、戦争は通常できうるだけ回避するものであろうことが国際的コンセンサスだろう。ところがそれを国民国家信条として「戦争しない」とアイデンティファイするのはとても特異な発想。「戦争」というのは個人でどうこう出来うるものではないからだ。戦う/戦わないという選択が可能で有効的なのは、戦いたりうる「力」を持つ強者である。それは切捨御免を自らの能力として担保している武士の発想であろう。対峙できうるパワーを持たない弱者は戦争に参戦出来ず、巻き込まれるか逃げるかしかないのだから。無論だからこそ「核武装論」というハナシが出るのだろう。このように武装強行論な右派と非武装論の左派はダイハードな同じ前提を有する者達であるのだが、そのダイハードがで強烈であればあるこそ自己持論が「明瞭」に活きてくる為とかく価値二分法になりやすく、その二分法からハミ出すものをオミットしてしまう。とまれ「殺し合いしない」ことを誇りにされてもとまどうのは、殺し合わない有意義よりもなによりも、それが前提とする殺すか殺されるかというマッチョな世界観の共有を国民主権の名の基に個人にせまる一方のネガティブなものだからだ。仏憲法の国家〜個人で共有できうる「自由・平等・博愛」ポジティブとは同等の扱いにはできない。そゆ意味でも made in Japan のほうがはるかにマシ*1
さて、相手がなんであれ紛争の最中に「美しい国」とか「正義」が相手にとって無力なのと同時に「戦争しない」と第三者的にいったところで、ずざけんなということで紛争は治まらない*2。そこで補完するものとして、kmiuraさんは国際協力隊的なものに自衛隊を変革していくことを提唱している。これが「違憲状態」で在り続ける組織の一番現実的かつ有効的落しどころであろう。

*1:但し「希望の国、日本」(経団連 略称・御手洗ビジョン)ナシで。>規制改革などを実現することで、15年まで名目で年平均3.3%、実質で同2.2%の経済成長を達成できると試算、成長を重視する安倍内閣の「上げ潮」路線に同調。財政健全化のため、遅くとも11年度までには消費税2%引き上げ、産業の国際競争力強化のため、国・地方税を合わせた法人実効税率を10%引き下げるよう求めた。 さらに、10年代初頭までに戦力不保持を定めた憲法9条を含めた憲法改正、中央集権体制を改めて、自立した広域経済圏を目指すため15年度までの道州制導入も提唱 アジア諸国を中心に経済連携協定(EPA)の締結を急ぎ、東アジア共同体の構築を目指す方針。http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2007/vision.html

*2:左派には〈抵抗〉形態として「非暴力直接行動」というこれまたややこしいフィクションがあったりする。>酒井隆史『暴力の哲学』ASIN:4309243088