オタク論は世代論か履歴か

インターネットが普及するにつれ、ミーハーといわれていた人たちの声が可視化されていった。そのため、今のオタクにはミーハーが多いと見えてしまう。もはや、検証することは不可能だが、昔でも一定の比率でミーハーな人たちがいて、その比率は現在も変わらないかもしれないのだ。

「漫画やアニメは物心ついた頃にはすでにある存在だった」加野瀬さんは「昔から、ミーハーな人やオタクとして薄い人という人たちは存在していた」といって、「オタク的に物事を追求することなどを指す「濃い/薄い」というのは、世代論ではなく、「オタクとして何年続けてきたか」が生む差ではないだろうか。」と結論づける。そしてわかりやすいアーカイブを残すことを提唱。
昭和20年生まれのプレオタク世代から現在迄、オタクをめぐる社会環境が変化していないのなら、世代論ではなくオタク遍歴の違いダケで片付く。しかし社会対峙回避する対処法がオタクのオタクたる由縁でもあるならば、時代ごとに回避しなければならない対象=障害を意識してるからこそ、上記した行動様式のごとくオタクアイデンティファイも多大なる影響を受けていると考えることが出来うる。当事者が語る当事者語りには、願望や欲望=ネタがはいりこんだりして、背景を知らない者にとっては、文脈の中だけではその切り分けを見極めるのがむずかしいのであろうし、その当時&当事者的には完全にネタ=シャレであることがお約束のものが、下の世代にはベタになってしまうというのは80年代ポストモダンが右ないしは左旋回してしまった00年以降ならではかも。ひろゆきいうところの「嘘を嘘と...」という奴である。だからこそ「オタクエリートと自認する人たちがちゃんと語ってこなかった。」吉田アミさんid:amiyoshida:20070318:1174201045という感想にもなるのであろう。
純粋さと誠実が強調された『電車男』の大ヒット以降、オタク自称することに心理的にも初期には考えられない程社会的ハードルが緩くなってきたということが、まずオタク自称して他者との緩衝帯とオレ等仲間内関係性を繋ぐいう傾向に拍車をかけたということもあろう。