耽美と乙女

麻薬で逮捕された嶽本野ばらが、事件を語った。
最初にいっとくとワタクシ的には、酒たばこ等を含めたケミカル嗜好は個人責任の範疇でなされるべきと考えてるので、その行為が直ちに良い悪いの「道徳」判断には値しない。
動機はきわめてありがちなことだったが、「大麻やドラッグをやるのはダメな人間だと分かってもらうためには、引退しかない」と思いつめたらしい。

「逮捕されて一番怖かったのは『野ばらがやっているんだから私もやってみよう。しかもすぐに復帰したし』とファンに思われること。それは僕の責任だし、それに対して、どう責任を取れるのかと考えるといたたまれなくなった」
嶽本野ばら大麻事件を語る 「読者の審判仰ぎたい」(産経新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071201-00000927-san-soci

ほほー。いわゆる「耽美」をウリにする作家としたら一見以外な感じか。
野ばら擁護派の中には、文化形態の一環としてのドラック文化容認論が出てたし、創作インスピレーションの最大自由ということで、こうした嗜癖物を賞賛する向きも多い。
しかし、それよりも「乙女プライド」をウリにする野ばらであるなら、こうした「恥」とスジの通し方はきっちりしとかなくては、読者は見限るのであろう。事実、野ばらファンは逮捕報道にショックを受けて、厳しい意見がみうけられた。
なぜなら、そうしたケミカル嗜癖物で「ハイ」になる(生態的)自分などという行為からもっとも遠いところにいるのが、そんな「安易」なことでは癒されない「乙女心」なのだから、ねー。ギャルでもビッチでもジャンキーでもなく「乙女」である自己規定は、かくもキビシイ*1。だからこそ、その崇高な耽美がかがやくってことなんだろうな。現実はともかく。
とまれ他者の目に耐えうる創作ってのは、言葉上では「感情のおもむくままに」などどいうイメージがもてはやされるが、上記インタビューで野ばらが語っていたように、現実には頭がクリアになっていないと構築できないものである。もしそうした嗜癖物がないと仕事できえないとするなら、それはその道での前途がかなり尽きかけており、真剣に路線変更にとりくむべき時である。
無頼派耽美派という一群は、作品化された虚構の作家像を作家は具像化して演じ続けなければならないっていう私小説方法・小説家待望論、ブッとんだ作品世界に呼応するようなブッとんだ生活を作家に求める、そりゃ長い人生、早晩作家するのがきつくなる。「乙女」が短命なのと一緒だな。

*1:勿論、「ビッチでジャンキーだけど、ココロは乙女ポリなギャル」って全部取りを体現しようとするひともいる。